00 彼の記憶

予報によると、きょうは雨もなく、晴れとまではいえなくとも、空はうっすら青みがかっており、雲も薄かった。だから、きょうこそは、とダンブルドアも期待した。きょうこそは、太陽の光を見上げることができるのではないか。
だが実際、病室の窓が映すのは、暗い海の底に沈んだような景色だった。東の空にはあきらかに、たっぷりと水分を蓄えてそうな雨雲まで立ちこめている。
本来ならば、爽やかな朝の日差しが差し込んでもよさそうである。この部屋には、それもあまり必要ないのかもしれないが。
いったい、どれほどのひとがダンブルドアのように期待しただろう。天気を気にする者など、ほとんど残っていないかもしれない。人々は家に閉じ籠っているのだから。最小限の火を灯し、雨が掻き消す足音に耳をそばたて、息を潜めている。隣人にも心を許さず、そうしていれば、逆らわず、目に留まらぬように慎ましくいていればきっと自分に災難が降りかかることはないだろう、と。
彼らはでも、いずれ闇の帝王が勝手にいなくなると思っているのだろうか。自分たちをいつか解放するとでも。
ダンブルドアは雲の切れ目を探した。しかし、そんなことをする意味がどこにある。ダンブルドアができることは、するべきことは、もはやレールを敷くことだ。ひとつずつ、慎重に。必要以上に時間をかけても、結果は変わらないのに。ほかに名案が、たとえば空から光とともに降ってくるというならば別だが。
これでよいのだ、という確証はなかった。あるはずがない。ならば、自分がしようとしていることは、ひとつの賭けなのだろう。硬貨ではなく、他人の人生を賭けた……。
そこまで考えて、首を振る。
窓から視線を逸らし、部屋の中を振り返る。眠る彼女は、きょうも身動ぎひとつせず、規則正しい呼吸を繰り返している。彼女の穏やかな寝顔を見つめた。サクラの木の下で出会ったときの少女の面影を、探さずにはいられなかった。

ほとんど山を登らなければ、そこにはたどり着けない。周囲も当然、山の連なりに囲まれており、より山頂へつづく途中に、林を背負うように、大きい、木造の平屋が建っている。軒先のすぐそばには広い畑があり、山の麓をすっかり見下ろすことができた。
人里離れ、暮らすには不便だと言わざるをえないが、孤独な静けさに惹かれる気持ちはわかる。ひたすらつづく坂道を登ったあとならば、この開放的な景色を前に、ちょっとした達成感も味わえるだろう。
ダンブルドアは、ひらひらと舞ってきた薄桃色の花びらに誘われ、つい玄関先から逸れて、奥の庭にまわってみたところで、彼女に出会った。
丁寧に手入れされた庭だった。ダンブルドアも知っている薬草がいくつか植えられているようで、つい苦笑が浮かぶ。彼らは好き勝手に生い茂っているように見えた。が、それぞれ、自分の領域をしっかり守っているらしい。
花びらのやわらかな色のせいだろうか、またはその満開の花をどっさりつけて、ぴくりともしない幹の堂々たる佇まいのせいだろうか、ひときわ目を惹く木があった。
すぐにこれが、「サクラ」だとわかる。この木の美しさを、さんざん聞かされていたのだから。
家屋の中からそれを眺めていたらしいが、見慣れぬはずの、あきらかに場違いな格好のダンブルドアに気づいても、彼女の瞳は静かだった。

『……だれ?』

彼女の口から発せられた言葉に、驚いたのはダンブルドアのほうだった。

『英語が話せるのかい?』
『……あ、少し』

たどたどしい口ぶりではあるものの、決して下手ではなかった。彼女自身、まさか英語が通じる相手と対面する機会があるとは、思ってなかったようだ。
興味深そうにダンブルドアをうかがっている。
身体は小柄だった。それ以上に、なにか強靭なものを感じるのは、幼いながらも、相手をまっすぐに見つめる眼差しのせいかもしれない。

『祖母君に似ておるのう』
『……お祖母ちゃんを知ってる?』
『わしは、アルバス・ダンブルドア。きみの祖母君とは、古い友人じゃ』
『待って。お祖母ちゃん、呼んでくる』

立ち上がろうとする彼女を、ダンブルドアは、呼び止めた。
わざわざ呼びに行かずとも、すでにダンブルドアの訪問に気づいているはずなのだ。呼びに行ったところで、少女に伝言を頼み、出てこない可能性もある。
この場合、相手が痺れを切らすのを待つほうがいいのではないだろうか。幸い、待つのは苦手ではないし、ここならば見るものに困らない。
一枚、二枚、サクラの花びらが音もなく散り落ちる。風がふき、さわさわと枝を揺らす様子を眺めていると、風が止む。もう一度、風がふく一瞬を心待にしている自分がいる。
思わず感嘆の息が漏れた。

『……見事じゃ』

視線を彼女に戻す。
不思議そうに彼を見ていたが、ダンブルドアが微笑んでみせると、ぱっと笑顔が咲いた。この木を褒める者に、悪い人間などいないと思っているのか、警戒心などなかった。はじめから、そんなものなかったのかもしれない。
ダンブルドアは彼女の隣に座り、いろんな話をした。たどたどしい英語で、彼女も応えた。
着ているワンピースは、祖母の手作りで、一番気に入っていること、この時期になると猪などが畑を荒らすので困っていること、進学先の、もちろんマグルの学校のことだが、制服がいまから楽しみだとも言っていた。
あのときの彼女は、まだ十一だった。だが、少なくとも、自分の人生を歩んでいた。
時々、単語が出てこず、頭を捻りながらも楽しそうに話す笑顔を、だれが愛さずにいられただろう。
気づけばまた、本当にこれでよいのか、と頭のどこかで声がした。
許されるわけがない。ほかに道がないだけだ。

もう一度、最後に窓の外を見やった。
相変わらず陰鬱な影が空を覆い、世界は沈黙を守っている。
隅に寄せられた、カーテンの端に手を伸ばす。手前に引き寄せ、外の景色を閉じきる瞬間。雲がわずかにちぎれ、あ、と思ったときには、一筋の光が地上に差した。
ため息がでるような美しさではなかったが、少しは背中を押されたような気分になる。
この世のいったいだれに、彼を責められるというのか。
それでも、空の光がダンブルドアの青い瞳を輝かせることはなく、カーテンは音もなく閉じられた。

唯一の人物は晴れも雨もなく、眠りつづけるのだ。


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