30 休息

ダンブルドアにひそっと耳打ちするスネイプを、ハリーはぼんやりとした心地で見ていた。ダンブルドアの視線がスネイプから移り、「ハリー?」と優しく呼んでくる。
促され、なんとか立ち上がるものの、また足場がぐらりと揺れた。床がぐらついているのではなく、身体が震えていた。クラウチの話を聞いている間は気がつかなかった痛みが、いま完全に戻っていた。
ダンブルドアに身体を支えられながらうす暗い廊下に出る。ウィンキーのすすり泣く声が、耳に小さくなった。

「ハリー、まずわしの部屋に来てほしい」

もう一歩も歩きたくなかった。身体を動かしたくなかったが、ダンブルドアに寄り添われ、廊下を進む。

「シリウスがそこで待っておる。それに、医務室に着く前に、彼女も目を覚ましたそうじゃ」

ダンブルドアが言っていることを頭が理解する前に、首が頷く。一種の無感覚状態と非現実感とがハリーを襲っていたが、なにも気にならず、むしろ嬉しかった。
優勝杯に触れてから、起こったことについて、なにも考えたくなかった。写真のように鮮やかに、くっきりと頭の中で明滅する記憶を、じっくり調べてみる気にはなれない。
トランクの中のマッド-アイ・ムーディ、揺すっても眠りつづける彼女、手首のない腕を庇い、地面にへたり込んでいるワームテール、湯気の立ちのぼる大鍋からよみがえったヴォルデモート、セドリック……死んでいる……両親の元に返してくれと頼まれた……。
何本もの腕が、ハリーの首を締めようと伸びてくるみたいに、意思に反して記憶が、断片的ではあるが、蘇る。
彼女を抱きあげ、部屋を出ていくスネイプが一際、ハリーを息苦しくさせた。
ガーゴイルの石像の前に来た。ずっと黙っていたダンブルドアが合言葉を発し、石像が脇に飛び退く。ダンブルドアと一緒に、動く螺旋階段で樫の扉までのぼる。
ハリーは眉を潜めた。扉が近づくにつれて、ハリーの頭の中を掻き乱すように、部屋の中から呑気そうな人の話し声が聞こえてくるので、煩わしく感じた。

「ちょっと、じっとしていろよ」
「いいよ、もういいから」
「ここ……あ、ここか」
「いた、いたいってば」
「ひどいな、たんこぶが出来てる」
「だから、先にそう言ったよ」

ハリーの横から扉に腕を伸ばす、ダンブルドアの目元のしわが綻んでいる。ハリーは、それを不思議な気持ちで見た。
ダンブルドアの微笑みは、どこか悲しげな影をも落としていたのだ。
困惑するハリーをよそに、新しい頁をめくるように、目の前の扉が開く。
部屋の真ん中にシリウスが立っていた。一緒にいるのは、眠っているはずの彼女だ。
自分の足でちゃんと立っている。なぜかシリウスに頭を掴まれ、後頭部を覗き込まれていた。

「これくらいなら、なんともないだろう」
「うそ、すごく痛いよ」

その瞬間、ハリーの脚と腰とが、砕けるように崩れた。「ハリー?」ダンブルドアもとっさに支えられず、扉のすぐ近くで床に両手をつく。
「ハリー」一大事だと言わんばかりに、シリウスが彼女の頭を放り出すようにして、一気に部屋を横切る。
声を発して応えようとするが、喉が震えてうまく声が出ない。
ハリーの肩を掴む、力強いシリウスの手が、とても大きく感じられた。ふいに涙が込み上げてきそうだった。その手をずっと放してほしくなかった。
反対の肩にも、人の手が置かれる。
「ハリー? 大丈夫?」シリウスのように大きくないけれど、静かで優しい手が、ハリーの腕を擦った。

「目を覚ましたんだ……」

顔を上げると、どうして知っているのかというふうに戸惑う彼女と、目が合う。
「ハリーがお主を見つけてくれたんじゃよ」
ダンブルドアは少しだけ探るように、ハリーのことを見ていた。

彼女をトランクの中から見つける直前、どうして自分があんな行動に出たのか、ハリーは求められても説明できない。
脳裏で、彼女を抱きあげるスネイプが再生される。付箋がついたみたいに心に残っている、その一連の動作を、ハリーは隣の床に尻をつけて、見惚れるように見上げていた。
浮かびあがる華奢な身体を見ながら、あのとき、彼女をスネイプに取り上げられるような気がして、そのあまりの悲しみに呆然となった。
そして、ハリーが最も嫌悪したのは、髪の隙間から見えたスネイプのつらそうな表情に一瞬、言葉を失くした自分だった。
彼女は決まり悪そうにダンブルドアを見上げたあと、ハリーのために、少しだけ笑ってくれる。

「ありがとう、ハリー」

肩の手が、もう大丈夫だよ、というように撫ぜてくれる。いまは、それだけでじゅうぶんだと思う。
シリウスと彼女に支えられ、ハリーはようやく机の前の椅子に座ることができた。

アズカバンから逃走してきたときのように、蒼白でやつれた顔をしたシリウスが、「いったい、なにがあったんだ」と訊ねる。シリウスの右の手は、もう二度と離すものかというように、ハリーの肩を掴んでいる。
ダンブルドアがクラウチの話を一部始終、シリウスと彼女に語るあいだ、たまにシリウスの手が力んで肩に食い込んだが、それでもハリーはそばにいてくれることのほうが嬉しかった。
一方で、彼女はハリーの座っている椅子のひじ掛けに腰をかけ、その膝の上でハリーの手をずっと握っていた。ダンブルドアの話に、真剣に耳を傾けながら、ハリーが手を強く握れば握るほど、落ち着かせるように両手で優しく包んでくれる。
「クラウチさんの息子さんが」彼女が悲しそうな声を出す。
「知っているのか」とシリウスの声が頭の上からする。

「昔、何度か会ったことがあるけれど、死喰い人だったなんて」

すぐ近くで交わされる、ふたりの話し声は、どんな子守唄よりもハリーを安らかな気分にさせた。
疲れ果て、身体中の骨が痛む。このままふたりを、両手に独り占めにして、眠りに落ち、なにものにも邪魔されず何時間でも、ひたすらそこに座っていたかった。
ダンブルドアが話し終える。ハリーと向き合い、自分を見つめてくるダンブルドアの目を、ハリーは逃げるように避けた。
校長先生は僕に質問するつもりだ。僕に、すべてをもう一度、思い出させようとしている。

「ハリー」

ダンブルドアが、穏やかな動作で身を乗り出す。気が進まないままに顔をあげ、ハリーは澄んだ碧い瞳を見つめた。

「迷路の移動キーに触れてから、なにが起こったのか、わしは知る必要があるのじゃ。きみは、わしの期待を遥かに越える勇気を示した。もう一度、その勇気を示してほしい。なにが起きたか、わしらに聞かせてくれ」

>>

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -