29 闇の印

スネイプは髪を撫ぜられ、その感触をなぜ風に吹かれたのだと思ったのか、自分でもわからなかった。
微妙な違和感を覚え、顔をあげてみると、まさか、と思ってもいなかったことが起こっていた。
さっきまでぴくりともしなかった彼女が、頬を肩に乗せるようにして首を傾げて、スネイプのことを見上げている。その眼差しが、赤ん坊がはじめて光を見たかのように無防備で、恍惚していた。
それから無言でほころぶ顔に、彼女の手を握っているのも忘れて、スネイプの手に力が入った。

「スネイプ」

ひたと見つめて、掠れた声で嬉しそうに名を呼ぶ。
しかしすぐに表情が消え、再びまぶたを下ろしてしまう彼女にスネイプは慌てて、「あ、おい」と身を乗り出した。

「え?」
「……いや。いや、なんでもない」

彼女は大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。まるで気持ちを切り替えるために、空気の感触を確かめているようだ。
ようやく事態の急変に気づいたスネイプは、手を離し、ベンチのそばから身を引くようにして立ち上がった。その拍子に、爪先になにかぶつかった気がしたが、のろのろと身体を起こす彼女から、目だけは離せない。
「あ、いたた」
頭の後ろを手で押さえ、「ここはどこ」と窓の外に視線を移している。

「スネイプ?」

返事がなく、不思議そうにこちらを振り向いた。

「あ、な、んだ」
「私、どれくらい眠ってた?」
「それなら、あー、ついさっき、第三の課題が終わったところだ」
「そう。思っていたより、経っていないんだね」

自分に言い聞かせるように、「よかった」と呟くが、なぜか切なげな印象が拭えない。
ベンチから足を下ろす。
「あれ、靴が片方ない」
スネイプが立ち上がったとき、蹴ったと思ったのは、さっき拾った彼女の靴だったらしい。「あった、あった」と両足を履き揃えても、彼女は立ち上がろうとしなかった。
まだ夢と現実の狭間をさまよっているみたいに、ぼんやりしている。
どこから話せばいいのだろう、とスネイプはひとり思案した。たった数時間だが、彼女が眠っていたあいだにあったことを、できるだけ思いやりをもって説明するつもりだった。
「実は」と口を開く。しかし、同時に彼女も、「あぁ」と頓狂な声をあげた。
スネイプの両腕をしがみつくように引っ張る。ちょうど闇の印が刻まれたあたりだった。スネイプは小さく息を飲んだ。

「ムーディさん、あのムーディさんは、偽物だよ。あっそんなことより、ハリーは? どこ?」

彼女の勢いにやや戸惑いながらも、「ポッターなら、無事だ」と教えてやる。
「いまはムーディの部屋で、校長と一緒にいる」
「え、そうなの」一気に安堵の表情が浮かぶ。

「だが、ディゴリーが」
「セドリックが……?」
「ポッターの言うことが本当ならば、闇の帝王に殺された」

彼女の表情が強ばり、スネイプの両腕を掴む手から、ふっと力が抜けた。
痛々しい沈黙が流れる。
ふいに、彼女の手が、ぱっと離れた。「ごめん」とひどく動揺している。

「あの、わざとじゃないから、いまのは」

なんのことを言っているか、はじめはわからなかった。察しがついたとき、スネイプは自分でも不思議な行動にでた。
左腕の袖を捲り上げ、座っている彼女の目の前にそれを晒す。不思議だったのは、そうしても、スネイプの心は穏やかなままだったのだ。
袖の下から現れた、はっきりと浮かび上がる闇の印に、彼女の背筋が伸びる。眉を潜め、現実を真剣に受けとめている目が、痛いくらいスネイプの左腕を見つめた。

「本当に戻ってきたんだね」
「本当に?」妙な言い方だ。
「これって、痛むの?」

逡巡し、「少し」と言ってみた。実は、真っ赤に焼けた鉄を押し当てられたあとのような痛みと熱が、しつこく長引いている。主人のもとに戻らない配下への、嫌がらせみたいだ。

「触ってもいい?」

そんなに、これに触りたいのか。彼女は前にもこの腕に触れようとしたことがあった。
スネイプは、答えなかったが、腕を隠しもしなかった。ましてや、手を翳し、彼女に犬のしつけみたいなこともしない。
ほっそりした指先が、闇の印に触れ、晒した腕の拳に力が入る。
意外に、彼女に腕の印をなぞられて真っ先に思ったのは、彼女にこの印を近づけてはいけない、という焦りだった。

「痛い?」
「いや……」

しかし、スネイプの思いに反するかのように彼女に触れられた場所から、むしろ、じくじく蝕む痛みが和らいでいく感じがした。
彼女の手が人より冷たいせいかもしれない。傷を清めるように、熱が吸い取られていく。

「……もういいだろう」

いつまでも手を離さない彼女に、だんだん腕が強ばってきた。
彼女が困ったような笑い顔で、「スネイプって」と言った。

「スネイプって、こんなに腕が、逞しかったかな」
「は?」
「昔はもっと、これくらいだったよ」

そう言うと彼女は、両手の親指と人差し指をくっつけ、輪っかを作ってみせた。その目にはもはや闇の印など映っていない。
「お前は」スネイプの肩から、どっと力が抜ける。
「我輩の腕より、こっちを見ろ、こっち」
闇の印を。この緊急事態を。

「ごめん、なんかそっちに、気をとられてしまって」

謝罪を口にしつつも、彼女の興味はスネイプの腕で膨らむ筋肉や、血管に注がれている。前腕に浮かぶ青い筋を伝っていく柔らかい指先の感触に、スネイプは思わず身震いした。ずっと閉じていた扉を、優しくだが、無理やりこじ開けられるような感覚に陥る。
賢い頭がスネイプに警鐘を鳴らす。

彼女の指を、いますぐ振り払わないといけない。これは、ただの愛撫だ。

上ずった声で、おい、と口にする。ふたりがいる廊下に、いかにも場違いな犬の鳴き声が響いたのは、ほぼ同時だった。

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