28 鏡の世界

大きな翼を持った鳥の、素早い飛翔の影につられて振り返ると、あっちの空にはのっぺりとした暗雲が垂れ込めていた。
彼女が立っている場所は、まだ明るい日差しに包まれて空気も乾いているので、あっちのほうで雨が降るんだな、と思った。
じきに、ここにいても大気が毛羽立ちはじめるのを感じる。懐かしい匂いが漂ってくる。きっと夕立のような、暗くて荒っぽい雨が降るのだ。
その暗雲の下に、人が立っていた。
いつの間にそこにいたのか、はじめからいたのか、わからない。ただ、その姿に気づいたとき、寒気のようなものを背筋に感じた。
彼女のほうを向いていて、黒いだけの質素なローブを、引き摺るように羽織っている。頭にはフードを被っていて、顔もよく見えなかったが、目が合った気がしたのだ。
前髪の生え際あたりから、ぶわっと汗が噴きだす。
彼の背後から雨が降りだした。
フードの下で、彼は彼女を見据えたまま、歩みはじめる。彼女は目を離せない。一歩一歩、踏みしめるようにやってくる彼は、まるで彼が雨を降らせ、従えているようだった。
彼の全身は、たちまち水滴を滴らせる。ひどい土砂降りで、あたりは白煙に包まれている。それでも歩みを止めない。堂々としているのに、足音を立てない歩き方だ。
彼女は晴天と雨天の分かれ目が、彼と一緒に迫ってくるのを見つめていた。
逃げろ、と全身で警鐘を鳴らす自分と、逃げるな、と叱咤する自分がいる。逃げられない、と彼女じゃないだれかの声が言う。迷っているあいだにも距離が尽きていく。どうするにも、もう間に合わない。
彼の口元に、暗く涼しげな笑みが浮かんでいるのが目に入り、彼女は耐え切れず強く目を瞑った。
大量の雫がいっせいに全身を叩きだす刹那を待った。


うす目を開けると、白い天井がぼんやりと広がる。

頭を少し動かすと、同じような白が滲んだ。
寝返りをうって、柔らかい枕の下に、手を入れる。ひんやりしていて気持ちがいい。
周囲は静かなもので、彼女はどうして目が覚めたのかわからなかった。晴れ渡った空を連想させるような、明るい日差しが窓から注ぎ、彼女の頬を照らしている。変な夢をみた気がするが、悪くない目覚めだった。
首だけ動かし、左右を見回す。それからこっそりと抜け出したベッドのあとには、しわの寄ったシーツだけが残された。

医務室から逃げるように飛び出すと彼女は、いったいどこへ向かうべきなのか、首を捻った。
そもそも、いまが何時なのかもわからないのだ。何日間も眠りつづけていたかのように、空腹を感じる。
彼女は結局、大広間に向かうことにした。

夕食にはまだ少し早いせいか、縦に並んだ四つの長テーブルは、がらんとしている。
グリフィンドールのテーブル添いを歩き、見慣れた姿の前で、「ここ、いい?」と声をかけた。
本を読んでいたリリーが顔を上げ、彼女を見た。

「気分はどう?」
「うん、もう大丈夫だよ」

彼女は、向かいの席に腰をおろしながら、制服のスカートがしわにならないよう、手をあてる。
リリーから少し離れた隣にいる、顔だけ知っている同寮の男子生徒が、彼女を見やり、リリーに視線を移し、友人との会話に戻る。
向き合う格好なると、リリーは神妙な顔つきで、彼女の顔をじっと見ていた。
なにか言いたげなので、彼女もその瞳を見つめ返す。とたんに、たしかに大広間は空いているが、やけにまわりが静かだな、と違和感を感じた。
笑いながら、「どうしたの」と促す。
「あのね」とリリーは、テーブルの上に両手を重ねて、背筋を伸ばした。「これも私の役目ね」と。

「あなたに言いたいことは、たくさんあるのよ。そりゃあもう、山ほどあるわ。あなたの自己管理能力のなさったら、成長しないんだもの」

そんな大きな傷まで負って、とリリーが彼女の左肩を見て、飽きれたようにため息を吐く。
彼女は思わず、自分の左肩に手を当てたが、こんなところを怪我した覚えはない。

「でもいまは、そんなことを言うのはもったいないわ。時間もないし、私がいま、あなたにいちばん伝えたいのは……だめ、やっぱり我慢できない。もうまったく、あなたったら、ばかね」

一方的にまくし立てられて、ぽかんとしてしまったが、口を挟もうとすると先に、「んん!」と人差し指を立てられた。

「いつまでもここにいてはだめ。いられないの」

それは、卒業のはなしだろうか。
リリーはしかし、「セドリックが犠牲になってしまったのよ」と急に、彼女の知らない名前を口にした。暗く、悲しげで、死者を弔う顔だった。

「え、だれ?」
「闇の帝王が復活したの」
「復活もなにも、いま一番、勢力があるって言われているけど……」
「ハリーも危ない」
「ど、どこのハリー?」
「アラスター・ムーディが偽者だったのよ」
「あ、その名前は知ってる」彼女はちょっと嬉しくなった。
「闇祓いの?」
「早く元の世界に戻って」
「え?」

なぜだかはわからないが、追い出されるように言われて、彼女は悲しくなる。
リリーは、よくわからない冗談を口にするひとではないし、張り詰めた表情で、目の前の友人が真剣なのだということは、彼女にもよくわかった。真剣すぎるくらいだ。

「目を覚ますのよ」
「ううん、起きてるよ。さっきからなにを言っているの、リリー」

リリーが語気を強めれば強めるほど、彼女も必死になった。不毛な言い合いをしているような気もする。
リリーには私が寝ているように見えるのだろうか、と軽く混乱を覚える。
助けを求めて、彼女は空を見上げていた。
大広間の天井は、まだ日差しがあるためか、浮き上がる百の蝋燭に灯火はなく、魔法の夜空も消え、屋根の内側が剥き出しになっている。
なぜか、夢が覚めてしまったような寂しさがそこにはあった。

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