23 憂いの篩

「それじゃ、あのあと医務室に行かないで、校長室に行ってきたのかい?」
「傷跡がまた傷んだら、ダンブルドアに話せってスナッフルズに言われていたから」
「ひどい夢だったの?」

去年、占い学を受講放棄したハーマイオニーも、ハリーが授業中に傷跡を押さえて床をのた打ったと聞いて、顔色を悪くし、談話室でロンと帰りを待ってくれていた。
「夏にみたのと同じくらい、生々しかった。ヴォルデモートが……」
その名前を口にしたとたん、ロンの身体がびくっと反応したが、ハリーは無視した。

「ヴォルデモートが、ワームテールのしくじりを責めていたんだ。でも、しくじりは繕われて、だれかが死んだみたいだった。それで、ワームテールは蛇の餌食にならずに済んだけれど、その代わりに」

ロンとハーマイオニーの顔を見た。

「僕を餌食にするって……」

三人は暗い顔のまま、沈黙した。
その夜、彼らは、クラウチ氏が現れた夜以来、またしても遅くまで談話室に残り、納得がいくまで同じ話を繰り返した。ハリーがみた夢の詳細から、ダンブルドアの部屋にあった、憂いの篩で見てきたこと、そのあと、ダンブルドアがハリーに話してくれたことのほとんどを、ハリーはふたりに話した。もちろん、シリウスにも手紙を出してある。

「それじゃ、ダンブルドアも、例のあの人が強大になりつつあるって、そう考えてるのかい?」自分たち以外、だれもいない談話室で、ロンは囁き声になる。
「それに、スネイプが死喰い人だったって知っていて、やつを信用してるのか?」

ハリーがうなづくと、ロンは忍び寄る影を振り払いたいかのように、あれこれと口を開いたが、ハーマイオニーは黙りがちで、考えこんでいるようだった。
ハリーの頭の中は、くらくらとしはじめている。色々な想いで頭がいっぱいになり、溢れた分を取り出すとほっとする、と言ったダンブルドアの気持ちが、いまならわかる気がした。
ハリーが、ダンブルドアの憂いの篩で見たのは、三つの裁判だった。スネイプを含め、仲間の名前を売るカルカロフ。敵に情報を漏らしたという、バグマン氏。それから、クラウチ氏の息子のものだ。
ダンブルドアとの約束どおり、ハリーは、死喰い人に拷問され、正気を失ったネビルの両親のことをふたりに話さなかった。
しかし、それだけじゃなかった。ダンブルドアは口止めをしなかったが、ハリーは彼らに話せずにいる。シリウスへの手紙にも、迷ったが結局、書かなかった。
その事実をたしかめるのが、怖かったのかもしれない。


クラウチ氏の息子は、父親が突き放すように下した判決に、泣き叫んでいた。評議会の人間や傍聴席から罵りの言葉を浴びせられ、抵抗も虚しく、法廷の外へ、吸魂鬼に引きずられていく。
ハリーは、その姿を見て、あの少年はただ本当に運悪く、ロングボトム夫妻の拷問場に居合わせただけかもしれない。冤罪なのではないか、と思いはじめていた。だれかにそのことを伝えたくて、あたりを見渡す。
引きずられていく少年を見送る、彼らの勝ち誇ったような顔を見たとたん、ハリーはぞっとし、言い知れぬ恐怖を感じてしまった。彼らの瞳の奥には、残忍ささえ滲んでいる。
中心にいる、やつれたクラウチ氏と、その横で泣きじゃくっている女性だけが、なんだか取り残されているようだった。
その直後、再び視界がぼやけた。記憶が切り替わるのだ。ハリーはすでに慣れたもので、やりきれない気持ちを残したまま、周囲がはっきりしてくるのを待った。
目を開けると、ある一室の、入り口近くに立っている。地下に閉ざされていた法廷から、雰囲気が一転し、壁も天井も白一色に統一された、清潔感の漂う部屋だ。まず病院にちがいなかった。
何人も詰め込まれる大部屋ではなく、完全な個室のようだ。部屋の奥の壁に、カーテンの引かれた窓がついている。レースのような素材なのか、太陽の光の粒を捕まえたみたいに輝いていた。さっきから裾が揺れているので、窓が開いているのだろう。
その壁に沿うように、骨組みまで白いベッドが置かれている。
狭い病室は、耳鳴りがするほど静かだ。ハリーは自分の胸の鼓動が強くなっているのを感じつつ、ベッドに近づいた。
真っ白な布団と光に包まれて、そこに彼女が眠っていた。

こんこんと眠っている。息をしているのは、わずかに上下する胸の動きでなんとか知れたが、それも眠りながら生きるために、最小限の呼吸を繰り返しているだけのようだった。
あまりにも安らかな寝顔だ。ハリーが知っている彼女より、どこか幼くも見える。
彼女がまだ、なにも知らないせいかもしれない。少なくともいまの彼女は、自分が眠りつづけていることも、つぎに目覚めたとき、親友のふたりが死んで、その息子が十一になろうとしていることも知らないはずだ。
眠る彼女の頬の上を、カーテンの影が掠める。見えないだれかが、起きて起きて、と囁きかけているみたいだ。
風が止むと、動くものが一切なくなり、時間さえ、動くのを止めたかのように錯覚させた。
そうか、とハリーは思わずにいられなかった。そうか、彼女はこんなふうに、十年ものあいだ、眠りつづけていたのか……。
背後で扉を引く音がした。

『ここじゃ……』
「……ダンブルドア?」

これはダンブルドアの記憶だったことを思い出す。
ダンブルドアは、でも病室に入ってはこず、身体を横に避ける。連れがいるらしく、あとにつづいて現れた人物は、不安と怒りが入り混じったような、複雑な表情をしていた。
ハリーは声を上げそうになった。
スネイプは入り口に立ち尽くしたまま、ハリーを見つめ返し、緊張しているのか、顔を強張らせている。
いや、ハリーの身体を透かして、眠っている彼女が見えているはずだ。嫌な予感が的中した、とばかりにスネイプは、なかなか病室に踏み込めず、ショックを受けているみたいだった。

彼女が眠りについて、間もないらしく、スネイプはずいぶん、若かった。二十代前半だと言われても納得できる、肉体的な若者らしさは残っていた。
ただ、一般的な若者に比べると、一段も二段も老けて見える。身体もいまよりずっと細く、急激に生気が抜け落ちたような、若さとは不釣り合いな雰囲気を纏っていた。
透明マントを被っているわけではないから、ここに存在しないはずのハリーはぶつかってもすり抜けてしまうはずだが、ベッドに歩み寄るスネイプ青年に、場所を退いた。
暗い瞳は、先ほどのハリーと同じように、彼女しか見えていない。そばに置いてあった、見舞い客用の椅子を使うかと思ったら、スネイプ青年はそれを無視してベッドの縁に腰をかけ、彼女の顔を覗きこむ。右手を持ち上げると、拳側の指の側面で、彼女の頬に触れた。彼女は身動ぎひとつせず、その手を受け入れる。閉じたまぶたの下から生え揃った、長いまつげがもどかしい。

『眠っている……』

スネイプ青年は扉のすぐ近くに立っているダンブルドアを、責めるような目で見た。

『なぜ、まだ眠っているんです。ポッターは死んで、呪いは解けているはずでは』

その、ポッターの発音には、亡き父親のことだろうが、スネイプがハリーを呼ぶときと同じ、憎しみが込められていた。

『さよう。ジェームズの呪いは、その場しのぎじゃ』
『いつ目を覚ますのか、わからないのですか』

ダンブルドアは憂いを溜めた瞳を伏せる。それを確認したスネイプ青年も、困惑した視線を、彼女に戻した。
しばらくのあいだ、ダンブルドアもスネイプ青年も黙り込んだ。飼い馴らされた猫みたいに、スネイプ青年は彼女のそばを離れようとしなかったし、その様子を、ハリーはただ眺めていることしかできなかった。
ハリーの胸になぜか、せつなさのようなものが迫っていたのだ。
窓から差し込む、透き通るような白い光が、青年の黒いローブに覆われた身体にぶつかり、やわらかく拡散している。彼女を屈託なく見守るスネイプ青年と、なにも知らずに眠りつづける彼女は、ハリーの知らない、なにか特別な中にいた。

『これは、僕がつけた傷です』

ふいに、スネイプ青年の指が彼女の髪を優しく払い、右のこめかみをあらわにした。その指先がなぞるあたりを注視してみる。生え際の近くに、ナイフで斬られたような、白い筋が血管のように盛り上がっている。髪に隠れて知らなかったが、あとから蘇生した皮膚の質感は、あきらかだった。

『僕は死喰い人で、彼女は闇祓いだった。僕はすぐに彼女に気づいたけれど、死喰い人の数は、闇祓いよりずっと多かったし、僕のほうは仮面を着けていたし、安心していた。それでも、彼女と目が合ったとき……』

膝の上にひじを乗せ、握り込んだ手を額に寄せる。スネイプ青年は、喉の奥から声を絞り出した。スネイプのそんな声を、ハリーは聞いたことがない。

『怖くなった。僕だって、気づかれるんじゃないかと』
『それで……』

ハリーの声を代弁するかのように、ダンブルドアがずっと優しく促す。

『それで、彼女が目の前の死喰い人が僕だと気づいたかは、わかりません。でも、その直後、僕の癖を覚えていたのか、驚いていた』

そう言って、右手を軽く、振るような仕草をする。
杖の振り方にも個性は出る。でも、それを見極められるくらい、ふたりは親しかったのか、とハリーに疑問がよぎる。

『だから、避けられる攻撃も当たってしまった。目には当たらなかったみたいだけど、血が、たくさん出ていた。その隙に、僕は逃げました』

病室は、懺悔室になっていた。神父はもちろん、ダンブルドアだ。ダンブルドアはなにも言わず、頭をうなだれるスネイプ青年を、優しい瞳で見つめていた。
この青年は、でも許されたいわけではない。ただ聞いてほしいのだろう。声にして、言葉にしたいのだ。

『いつも、傷つけてばかりだ』

上体を起こすと再び、彼女に向き直り、お腹の上で合わせられた細い両手に自分の右手を重ねた。なにかを祈るように、握る。

『僕はおまえに、話さなきゃいけないことがあるんだ。今度はきっと、ちゃんと伝えるから』

手を握る力が強くなる。それは切実な訴えだった。
スネイプは、待っていたのだ。ずっと、彼女が目覚めるときを。
ハリーは焦った。なにがハリーを掻き立てるのか、わからなかったが、動揺している自分に、動揺してしまう。
これは夢ではない。ダンブルドアの記憶だ。過去、たしかにあった出来事なのだ。
もっと顔をよく見ようとしたのか、スネイプ青年が彼女のほうへ身を屈めたとき、カーテンが勢いよくはためき、めくれた。風の感触を感じなかったが、隙間から差し込んだ明るい日差しがハリーの目に刺さる。思わず目を細めている。
ベッドに横たわる彼女も、彼女をじっと見つめているスネイプ青年も、握られた手も、光に背き、白っぽい影に覆われていった。

「そろそろ、わしの部屋に戻る時間じゃろう、ハリー」

ダンブルドアの穏やかな声を聞いた。

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