22 祈り

「あれからクラウチさんは……」
「見つからなんだ。怪しい者もいなかったそうじゃ。アラスターが言うからには、たしかじゃろう」

悩ましい春色も衰え、中庭に降り注ぐ、初夏の日差しが暑さを加えている。
ぼんやりしていると、立ったままでも、心が惹かれてしまう。安心して眠りにつく直前のように、現実が遠退き、身体から五感だけが浮かび上がる。色や光や音や匂いが、染み込んでくる感じだ。
優しく扇がれるような風。さざ波にも似た、木々の葉が擦れ合う音。陽だまりから立ち上る、土の匂い。自分の中が、そういうものだけで満たされると、とても気持ちがよかった。
ふと、胸に詰まるものを感じて彼女は、はぁ、と重たい息を吐いていた。遠ざかっていた現実が、すとん、と目の前に降ってくる。

ハリーに、あんな話をするつもりじゃなかった。

「あの夜、ハリーの前で私は、ピーターを庇うようなことを口にしました」

自分の弱さを一番、見せてはいけない相手だった。彼は、彼の言うとおり、ピーターの裏切りで、両親を永遠に奪われたのだ。両親から注がれるはずだった愛情は、なににも変えられない。
わかっていても、ハリーを想う同じ心が、ピーターのことを想った。
ピーターがしたことは、でもいまさら取り返しのつかないことだ、と思うと、彼女はなつかしい感覚に襲われた。ずっと昔、リーマスが人狼だと察しながらも、なにもできなかった自分を思い出す。あのころと、とても似ている。
神様。
無駄な祈りだとわかっていても、手を合わせずにはいられなかった。彼の前に現われるべき救いを、こうして求めるしかなかった。
彼女の話に、しかしダンブルドアは首を傾げた。

「それは本当に、無駄だったのじゃろうか」
「なんの役にも立ちませんから」

彼女は、神を信じていない。存在を否定しないが、自分のなかに信仰心を見出すことはなかった。 だから神様は、都合よく、祈りをきいてくれるはずもなかった。
「ふむ」とダンブルドアが唸る。少しのあいだ、彼女を見つめる間があった。

「お主の祈りは、お主が求める者には届かなかったやもしれん。じゃが、リーマスには届いた、とわしは思う。彼は勇気を発揮し、己の宿命に抗い、一生の友を得ることができたんじゃ」

ダンブルドアの手が、彼女の頬を撫ぜてゆく。役に立たないだなんて、とんでもない、と言う。

「強さとは、ときに愛じゃ。愛とは、相手の幸せを、心から願うことじゃよ」

ダンブルドアは彼女の両手をそっと掴み、持ち上げると、胸の前で手のひらを合わせるようにした。

「お主は強いひとだと、言ったじゃろう?」

戸惑いを隠しきれなかったが、くすぐったくて、彼女も思わず笑ってしまう。笑いながら、少し後ろめたかった。
理由はかんたんだ。
どんなに祈っても、この世界は残酷で、みんなが幸せになる方法なんてないからだ。だれかが笑えば、きっとその裏側でだれかが泣いている。
世界中に散らばっている幸せの数は、最初から決まっているのではないだろうか、と思う。
彼女は揺れる。大切なひとたちを両手に抱えたまま、どちらにも倒れることができない。
あるいは、選ばなければいけないのかもしれない。

「ピーターを追って、彼を捕らえるべきでしょうか」

その瞳のなかに答えがあるような気がするのに、ダンブルドアは彼女から目を逸らし、晴れた空を見ている。

「お主の心は、なんと」
「……私は、やっぱり、信じたいです。根拠はないですが」

彼女も青く澄んだ空を見上げる。太陽の輝きが大気に満ちている。

「空が、こんなにきれいですから」

ピーター。私は信じよう。
この空の下で、人はきっとやり直せる。ダンブルドアが私を信じてくれたように、私はあなたを信じるのだ。
心底、憎まれていても、そうありたいと思う。強くありたいと思う。
軽率な言葉ではなかった。人を信じるという行為には、勇気が伴わなければならない。裏切られることもあるのだと、覚悟しなくてはならない。
でも、それは唯一、自分にできる、償いにも思えた。

「どうか忘れずにいておくれ」
「え?」
「お主にはその強さがある。そして、自分自身を信じるのじゃ」

なぜかそのとき、ダンブルドアはとても哀しそうな目をした。相手に期待をかけるというより、試練を前にした者へ同情するような、深い眼差しだった。すぐ掻き消すように、「そろそろじゃな」と青い瞳が微笑む。

「ご苦労じゃが、駅まで行ってくれるかの」
「え?」
「ファッジ大臣が、クラウチ氏の件で参られるのじゃ」
「あ、はい」

校舎のなかに向かうダンブルドアへ、彼女は声をかけた。
「ありがとうございます」
不思議そうに、ダンブルドアが振り返る。

「ありがとうございます。遠い日本まで、私を迎えにきてくださって。ダンブルドアに、みんなに、出会えたことは、絶対に後悔しません、私」

彼女が微笑む。ダンブルドアの顔は、建物の影に重なって、よく見えなかった。


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