19 パッドフット

第二の課題中、今年一番と思われる大熱を出して、彼女は倒れた。気を失う直前、だれかが背中を擦ってくれたのだと、しきりに細い首を傾げていた。

「私はちがうわ。まだ、湖の底にいたんだから」

彼女が倒れたと知ったのは、第二の課題も無事に終わったあとだった。ハーマイオニーは、競技場のそばに建てられた、医療テントのなかで、マダム・ポンフリーから元気爆発薬をもらっていた。
課題を乗り越え、興奮冷めやらぬ様子でロンと一緒にはしゃいでいたハリーが、「あれ、彼女は?」とまわりを気にした。

「ハーマイオニー、見なかった?」

彼女もどこかで観戦しているだろうと思っていたし、ハーマイオニーは、彼らより先に救出されたとはいえ、まだ湖の底のハリーやロンの安否に夢中だった。
でも、そういえば自分が湖から出てきたときも一度も、彼女を見かけていない。
それとは別に、彼女の姿を探すハリーの様子が気にかかる。

「溜まっていた疲れが、一気に出たんでしょうね」

マダム・ポンフリーが、三人の話に気づいて、教えてくれた。
「彼女には、ゆっくりと休んでもらうんですから、お見舞いも、しばらくはだめですよ」

お見舞いは、三月に入ってもなかなか許されなかった。

ベッドの中で身体を起こした彼女と、目を見合わせる。およそ二週間ぶりの彼女は、いつも背筋のあたりにすっと通っていた芯が、ぽきん、と折れたような印象だったが、それ以外は熱も下がり、普段どおりだ。臥せてばかりで、退屈そうでもあった。

「だれだったんだろう」
「周りにいた、だれかじゃない?」
「それにしては……」

彼女は、困ったように微笑み、「気のせいだったのかな」とも言った。

「熱が下がったからって、油断しちゃだめよ」
「うん」

彼女が目を伏せて、反省をあらわにする。
手のかかるひとだ、とは思うが、こういうとき、ハーマイオニーが彼女のぶんまでその身を心配するとき、どうもハーマイオニーのほうが子どもっぽい心地になってしまう。大人をままごとに付き合わせて、母親役を演じている感覚だ。
それから、彼女は、「第二の課題はどうだった?」とハリーのほうへ視線を移した。

ハリーとロンの話に相槌を打ち、彼女は最後に、ハリーに向かって、「えらかったね」と微笑む。
ハリーは、本来の人質であるロンと、途中棄権したフラーの人質、ふたりを救出したので、その道徳心を評価され、現時点でセドリックと同点一位に躍り出ている。
彼女に褒められて、ハリーは満足そうに照れていた。
ハーマイオニーは黙っていたが、そんな彼をとても見落とせなかった。なにも言ってはいけないのだ。

「そろそろ時間だぜ」

年上の女のひとの部屋って、ドキドキするな、と半ば浮き足立っていたロンだったが、彼女の部屋は期待外れだったらしい。ここに、ロンの興味を引くものはないようだ。

「ありがとう、わざわざ」

ベッドの中から、彼女が申し訳なさそうに言ってくる。

「シリウスに、よろしくと言っておいてね」
「あ、うん」

ホグズミードへ、彼女と一緒に行けなくてなって、ハリーはここにくる前から、とくに残念そうだった。
ホグズミードに到着し、ドビーへのお土産を選び、これから名付け親と再会できるというのに、ハリーの顔は浮かない。
「彼女のことが、心配?」
ハーマイオニーは、彼を覗きこむようにして訊いた。

「え、うん。心配、だけど……」
「倒れるまで、我慢することないのにな」

ロンが呆れたように言う。そうね、とハーマイオニーもうなづいた。
クリスマス休暇も、今期はダンスパーティーの準備があったり、それからハグリッドが閉じこもったりして、ろくに休んでいなかったのだろう。
なんとなく、沈黙がつづいた。村の軒先には、雪の名残がまだ積もっており、まわりの生徒たちの話し声や、笑い声が、自分たちを通りすぎていく。
両隣から、ちらちらと自分のことを窺ってくる視線に気づき、「あ、ちがうんだよ」とハリーは急に慌てた。

「なにがちがうの?」
「早く元気になってほしいけど、やっぱり一緒に来たかったなって、思って」
「彼女のことかい?」

ハリーは、また黙り込んでしまう。彼の向こうにいる、ロンと目と見合わせる。

「とても照れくさいことなんだ」

ハーマイオニーたちから逃げるように、ハリーが歩調を速めた。追いつこうとしたロンの腕を、ハーマイオニーはとっさに掴む。
ハリーのあとを、ふたりはゆっくりとついていく。

「僕のひとりよがりなのかもしれない。でも、パッドフットが言ってくれたことが、頭から離れなくて」
「なにを言ってくれたの?」

ハリーはなかなか答えなかった。「家族に」と、穏やかな春風に乗って、それはそっと聞こえてきた。

「三人で住もう、ってパッドフットは言ったんだ。僕たちは、本物じゃなくても、もしかしたら家族になれるかも、僕にも家族ができるかもって思った」
「パッドフットがパパで、彼女がママ?」
「恥ずかしいだろ?」

彼女もきっと、こんなの迷惑だろうな、と寂しそうに顔をうつむく。
あぁ、やっぱり。そうだったのか。ハーマイオニーは、ようやくハリーの心の中を見た気がした。
ハーマイオニーは最初こそ、ハリーは彼女に恋をしているのだと思っていたが、それが母親という存在への羨望だとは気づかなかったくらい、家族がいないということが、どういう事態なのか、想像が足りていなかった。
自分の短絡的な思考が、急に恥ずかしくなる。わかっているつもりで、なにもわかっていなかった。

「そんなこと、ないわ」

これ以上、彼に寂しい思いをさせたくなくて、自分でもまずい、と思うくらい、必死に言っている。
ドラゴンや水魔を相手に、勇敢に戦ってこようと、ハリーの背中は、置いていかれた子どものように見えたし、ロンも、自分は大家族のせいか、神妙に口を閉ざしていた。
気づいたところで、両親や家族がだれも欠けることなく健在の自分たちには、ハリーの寂しさの半分も、わかってあげられないかもしれない。
遊び疲れておぶられる、父の背中の安心感や、母に髪をいじられるときのくすぐったい気持ちを、ハリーが知れなかったように。


ひとりになった部屋で彼女は、ベッドに潜り、まどろみを夢に溶かしていた。ごそごそという物音が、遠くで聞こえる。だれかがまた訪ねにきたのかもしれない。
さっきまで起き上がっていたせいか、眠りかけているせいか、身体がだるさを訴えてくる。同じ風邪でも、子どものころより重く苦しく感じられるのは、なぜだろう。
こうしてなにもせず、寝込んでいると、自分でも不意を突かれるような記憶が揺り起こされたりもした。

ずっと昔、いまみたいに体調を崩して、寝込んでいると、祖母はいつも甲斐甲斐しく、彼女を看病してくれた。
お粥を口に運んでくれたし、夜中でも額の手拭いを取り替えにきた。
子どものころを思い出すなんて、と苦笑する。身体が弱ると、心細くなっていけない。
気配を、匂いを、感じるように思い出せる。背後で、部屋の襖が開き、足袋が畳の上を滑る音。彼女が休んでいる、布団のすぐそばで、膝を揃え、顔を覗きこんでくる気配。懐かしい匂いが鼻をくすぐる。そして、手が伸びてくる。
前髪を掻き上げられて、額にぺたりと張りつく手のひらの感触に、彼女は、はっとなって目が覚めた。固まっていた身体が跳ねるように起き上がり、背後を振り向いた。


ハーマイオニーは、なにかを振りほどくように駆け出して、ハリーの左半身にぶつかり、その腕を、ぎゅう、と抱く。
「え?」とハリーが、目を丸くして気を取られている隙に、反対側でも、ロンがハリーの肩を抱いている。自分たちは、もうすでにホグズミードの外れに入りこんでいて、人目を気にすることもない。

「な、なに?」
「あなたには、私たちもいるわ」
「そうだよ、ハリー」
「歩きづらいんだけど!」
「寂しいより、いいじゃない」
「きみたちが三人で暮らせるように、僕たちも協力するよ」

ぽかん、としていたハリーが、笑顔になる。

「あ、ありがとう」

そんなハリーを見て、ハーマイオニーも笑みを浮かべる。
彼女も、と記憶を辿る。彼女も、ずっと前に親を亡くしたと言っていた。親を亡くし、大切な友を失くしたのだ。
ハーマイオニーは、罰当たりだと承知しながらも、平凡で幸福な身の上が、恨めしく思えてしまった。
彼女はきっと、ハリーの気持ちを、自然に汲み取ることができるのだろう。孤独な寂しさが、ひとを優しくさせるのかもしれない。
ちゃんと寝ているかしら。さっきまで顔を見ていたのに、無性に彼女に会いたくなっている。
くっついて歩く、彼らのあとには、雪の上に三人ぶんの足跡が残っていった。


「…………」

だれもいない部屋を眺め、呆然とする。額に残る感触を、手のひらで擦るように拭う。
彼女は起き上がり、ベッドを出ると、部屋の端に積み上げた本の山を突然、崩しはじめた。その中から、てきとうに拾い、背表紙を持つようにして頁を揺する。手当たり次第、次から次へ繰り返す。
遊んでいると勘違いしたのか、クルックシャンクスがそばに寄ってきたが、無視してつづけているうちに、ある本の隙間から、一枚の写真が滑り落ちた。
彼女は動きを止めた。
写真を見下ろす。手を、写真の上に置き、手の甲に青い血管を浮かべて力を入れると、くしゃ、と写真の笑顔が歪む。


『強がりも、強いからこそ、できるのではないかのう』

『おまえは、そんなやわな女ではないだろう』

『だからきみは、そんなに優しいんだ』

『あの子のことも、守ってやってくれ』


張り詰めていた指先が、見えない力に操られるように、弛緩する。
写真から手を引いて、薄い唇にひとつ、笑みを落とすと、クルックシャンクスの頭を撫ぜ、少しだけしわになってしまったそれをまた、そばに落ちている本の隙間に戻した。

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