12 逃げること

占い学の授業を受け持つ、トレローニー先生が年中、引きこもっている部屋は、北塔の急な螺旋階段を上り詰めたところにある。日当たりもいいはずなのに、窓は厚手のカーテンで締め切られており、香水のような甘ったるい匂いが常に充満している。
この部屋に彼女は、一日少なくとも三度は行き来する。朝昼晩と先生に食事を届け、空いた食器を下げるのは、彼女の仕事だからだ。
その日の夜も、銀のお盆で食事を運び、先生の部屋を訪ねた。部屋に入ったとたん、独特な匂いが鼻に絡みついて、頭がくらくらする。
テーブルの上に食事を並べ終わると、暖炉の前の肘掛け椅子でくつろいでいたトレローニー先生が、珍しく口をきいた。

「なにか心配しているわね、お嬢さん」

ふしぎな声だった。トレローニー先生は目の前に見えているのに、まるで霧のなかに立たされているような気分になる。声が四方から響いてくるのだ。なんとか聞き取れたものの、彼女の表情に困惑が浮かぶ。

「いいえ」

いつものように喋っているつもりなのに、自分の声まで妙にぼんやりと響いた。

「代表選手は全員、無事に第一の課題をパスできましたし」

ハリーもだ。たいした怪我もなく、ホーンテールを出し抜き、金の卵を手に入れてみせた。呼び寄せの呪文でファイアボルトを呼び寄せたのは見事だし、素晴らしかったとも思う。
大歓声が響く会場で、金の卵を誇らしげに抱えているハリーに、彼女もほっと胸を撫で下ろした。
でも課題はまだ、第二、第三と残っているから、心配といえば、心配かもしれない。ハリーは、金の卵の謎を解けるだろうか。
あとは、シリウスのこともある。止めても無駄だとわかっていても、やはり世間の誤解が解けるまでは、大人しくしていてほしいのが本音だ。彼が動けば動くほど、だれかに見られる可能性も高くなる。

「あたくしが言っているのは、あなた自身のことですわ」

赤いランプが無数に灯る薄暗がりのなか、先生の眼鏡越しの大きな目が、彼女を見上げていた。

「……はい?」
「あたくしの心眼は、平気を装っているあなたの顔の奥にある、悩める魂を見透かしますのよ。残念ながらあなたの恐れは、根拠なきものではありませんね」

彼女もトレローニー先生を見る。
先生は椅子にくつろいだ格好のまま、淡々としていて、それが妙な説得力を持っていた。

「あなたの恐れていることは、必ず起こるでしょう」
「恐れていること……?」
「あなたがいくら逃げようとしても、運命からは逃げられません。地の果てまで追ってくるのです」

そう遠くない未来、それは必ず現実のものになります、と断言したトレローニー先生の声が、彼女の頭から離れなかった。

空になったお盆を持って、螺旋階段を下りていく。
私が恐れていること。恐れていることを、彼女は思い浮かべようとしていた。
でも、なんて漠然としているのだろう。ともすれば、先生の予言は、噂通りのでたらめなのかもしれない。それは、ハーマイオニーが去年、占い学の受講を放棄するほどで、予言が本当なら、ハリーはもう何度も死んでいるらしい。
ただ、あまり気分がいいものではない。

私は逃げているのだろうか。

魔法の存在が、まだ絵本のなかだけだと思っていたころ、庭の桜の木が花をつけて、それは見事な満開であった。花の重みで枝が若干、しなだれているほどだ。
それでも一枚、二枚、薄紅色の花弁がひらりひらりと舞っていた。縁側から眺めていると、また一枚。
風に乗って散っていく花弁を、なんの気なしに目で追った。花弁が滑るように落ちた先に、見知らぬひとが立っていた。彼は、立ち尽くしていた。
玄関からこの庭へ回ってきたのだろう、そのひとは、彼女ではなく、春爛漫を誇る桜の木を見上げていた。
ふたりのあいだを、花弁がふわふわと流れていく。
幼心にも、彼女は嬉しかった。薄紅色を映す彼の瞳は、とてもいとおしそうに桜を見ていたからだ。

しかし、いま思うと彼は、本当は哀しかったのかもしれない。
愛しいと哀しいは、不都合なくらい似ている。

「……セドリック」

彼女は、廊下の先にいる男子生徒を呼び止めた。夕食を終えて、大広間のすぐに近くに寮があるハッフルパフ生がここにいるのは、奇妙に感じる。

「どうしたの」
「いや」好青年は少し、興奮しているようだった。
「ムーディ先生に呼ばれて、少し話をしていたんだ」
「ムーディさんと?」
「じゃあ、僕は行くよ。さっそく風呂に入らないと」

片手を持ち上げると、足早に立ち去って行った。

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