07 開会式
1X年前――
クラウチ氏の奥さんは綺麗なひとだった。物腰もやわらかく、微笑むと、そのまま消え入ってしまいそうな儚げな雰囲気を漂わせていた。かと思えば、若干ぼんやりしているところもあるようだ。
同性の彼女でも、一目見てそう思ったのだから、クラウチ氏もきっと、この小柄な女性を「守りたい」と思ったことだろう。
こんな広い屋敷に、息子さんとほとんどふたりきりで暮らしているせいか、彼女が訪ねると、闇祓いが予告もなしにやって来たにもかかわらず、訳も訊かず、奥さんは歓迎してくれた。しもべ妖精がどこからともなく出てきて、彼女の黒ローブを引き取ると、奥へ下がっていく。
「クラウチさんにはいつも、お世話なっております」
「あんな頑固者が上司だと、あなたたちのほうが大変でしょう?」
そう言って、彼女を労うみたいに、わざわざ自分で紅茶を出してくれる。部屋に上品な匂いが立ちこめている。
彼女は、「お気遣いなく」と言い、早めに用件を話すことにした。この手の話は、あとに回したところで仕方がない。
「実は、クラウチさんが魔法省内で襲撃を受けまして」
夫人が息を呑み、発作的に手を自分の首元に当てる。なんとか落ち着こうとしているのを見て、彼女は慌てて、「命に別状はありません」と付け足した。
「かすり傷でした。犯人も、その場ですぐ、闇祓いに取り押さえられました」
という話だった。だれも手が空いていなかったため、出先から呼び出されて直接ここまで来た彼女は、詳しい状況を知らない。
ただ、執務中のクラウチ氏を攻撃した犯人は、同じ魔法省の役人だった。部署はちがえど、彼女も挨拶を交わす程度の、顔見知りだ。
彼がいつから寝返っていたのか、ずっと前からなのか、昨日からなのか、わからない。あるいは、「服従の呪文」をかけられていたのかもしれない。時間をかけた調査も裁判も、しかしきっとしないだろう。
「だめね……」
例の儚さで、夫人が微笑んでいる。弱々しい声だ。
「覚悟はしているつもりなのに、あのひとを失うのはこわいの」
「すみません」
「どうして謝るの?」
「私たちが……」
彼女は迷った。自分たちが無力だから、とここで口にしてしまったら、目の前が真っ暗になってしまう予感があった。
なにがあっても、諦めてはいけない。希望だけは失うわけにいかない。
でも、そうやって前に立ちつづけて、自分はなにを守ろうとしているのだろう。時々、わからなくなる。
「クラウチはやっぱり、彼らに恨まれているのでしょうね」
寂しそうにつぶやく、クラウチ氏の奥さんを、彼女はほとんど反射的に励ましたくなった。夫人の儚さが、そうさせるのかもしれない。
クラウチさんは強い。多くの者が、触らぬ神に祟りなしと闇の帝王を恐れ、都合のよいことを声高らかにして、虚勢を張っているだけのなかで、クラウチさんは唯一、行動を起こしているひとだった。闇の勢力を許さず、見逃さず、積極的に抵抗している。
いまとなっては、新聞も彼を英雄のように扱っている。暗闇に迷う、この世界が求めている力を、クラウチさんは持っていたのだ。
たとえそれが出世したいがためであろうと、だれにでもできることじゃない。
しかし彼女は、なにも言えなかった。それで夫人が励ませられるとは到底、思えなかった。
「クラウチさんは、私の命の恩人です」
気づけば彼女は、打ち明けていた。目元を拭いながら、夫人が顔をあげる。
「闇祓いに、許されざる呪文が解禁されたことはご存じでしょうか」
「えぇ」
「クラウチさんは、暴力には暴力をもって立ち向かうべきだと主張しました」
藁にもすがりたい現大臣は、すんなりとその主張を通した。反対する者は、上層部にいなかった。
そのちがいで、闇祓いの人数が減っていたのは事実だ。だが実際に、闇の魔法使いを前にしてそれを行使する闇祓いは、ほとんどいない。
すでに身体の半分を闇に浸けて生きている自分たちは、その線を越えるわけにいかなかった。
そのことをよく知っているムーディさんは、法案の可決に苦い顔をしていた。
「でも、クラウチさんが法を変えていなかったら、私はいまも、アズカバンの牢獄にいました」
彼女の身体に悪寒が走る。荒れた海に囲まれた孤島、暗く汚ない独房が脳裏にこびりついている。裁判所から連行される人びとが、泣きじゃくって抵抗する姿は何度も見てきた。
「そうだったの」と声がして、彼女は夫人を見た。澄んだ瞳があきらかに同情を浮かべていて、彼女は戸惑った。
「クラウチは、家で仕事の話をしたがらないから」
最初で最後の死亡報告書を、クラウチ氏はいつもどおり彼女から受け取っていたことを思い出す。
「後悔している?」
彼女はむしろ、そう思われたくなくて、「いいえ」と夫人に答えていた。
「いいえ、していません」
後悔はしていない。ただ、許されることでもない。きっと一生。
そのとき、部屋の扉が開いた。扉のそばに立ち尽くしている青年に向かって、夫人が笑いかける。
「おはよう。やっと起きたの」
時刻はすでに夕方だった。夫人の優しげな横顔を、うらやましいとさえ思う。彼女はすでに、この女性を好きになりはじめている。
彼女とあまり年齢が変わらないように見えたが、青年の表情は暗く、強張っていた。薄茶色の髪といい、寝起きのせいか充血しているものの、可愛らしい目元といい、目の前の夫人とよく似ている。
青年はずいぶんと怯えており、彼女を指差した。
「こちらはお父様の部下のかたよ」
「はじめまして」
彼女は座ったまま頭を下げる。
お父様。じゃあやっぱり、この青年はクラウチ氏の息子さんらしい。
「なんで、ここに……」
あとちょっとでも、夫人が父親の事情を話すのが遅ければ発狂していただろう、と思えるほど、青年の顔は真っ青だった。
「それで、あのひとは怪我をしても、帰ってこないのね」
夫人は呆れている。青年もショックだったらしく、部屋に戻ったあとだ。
「今夜は、家を出ないでください」
「私たちも危ないの?」
心配そうに上を見上げる。視線の先には、高級そうな照明が吊された天井があったけれど、その目は二階で休んでいる自分の子どもを見たのだろう。
「かもしれないので、私が来ました。私は外にいるので、なにかあったら」
「あなたの好きな食べものは?」
「え?」
質問の意味が分からず、彼女は戸惑った。頭は律儀に好きな食べものを考えはじめているが、夫人のうれしそうな顔に気がとられる。
本当に、綺麗なひとだった。
「お夕食、一緒に食べるでしょう?」
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