15 月夜の秘密

月明かりは、リーマスの部屋の絨毯のうえに、窓枠の影を伸ばしている。時間まで眠りについてしまったかのように、夜は長かった。そういう夜は大抵、静かなものだ。
夜長の暇潰しにリーマスは、最近の出来事を振り返ってみることにした。

ダンブルドアと校長室で話をしたのは、シリウスが城に侵入した後のことだったので、その件について呼ばれたのだと思った。いざ訪ねてみると、体調を気遣われ、甘いものが美味しい店の話などに華を咲かしたが、やはりリーマスの予想は当たっていた。
ただダンブルドアの関心は、もっとほかにあったのだ。

「彼女は、動揺していたかな」

リーマスは彼女の様子を思い出そうとした。
いつもどおりのようにも見えたが、顔に出ないだけなのかもしれないとも思う。
「私には計り知れません」と正直に言う。

「彼女を、頼むリーマス」

なにを頼まれたのか、リーマスは理解に苦しんだ。ダンブルドアの碧い瞳を見つめ返すが、自分の中にある過去の罪悪感にチクチクと腹を刺され、すっと伏せてしまう。
「彼女は後悔しておる、とても」
ダンブルドアは、同情をあらわにして言った。

「後悔、ですか」
「大切なものを守れなかったことを、後悔し、自分を責めておる」

ダンブルドアの存在が一瞬、遠退き、ジェームズとリリーの姿が頭に浮かんだ。思い出すたびに、彼らはいつもリーマスに笑いかけてくる。
もう笑った顔しか思い出せなくなっているのだ。それすらも、リーマスの記憶というより、勝手に作り出された映像のように思える。

「でも、それは…」
「眠らされていたからじゃ。だが、そう簡単には、割り切れぬ」

ふいに、リーマスは思い出した。もう二度と、自分は人間に戻ることができないと悟り、絶望に暮れた日々を。
泣こうが、喚こうが、失ってしまったものは、なにをしても返らない。目の前に、真っ暗な闇だけが広がっている。そこにひとり、立たされた気持ちを。
なにより、まだ生きていることが苦痛だった。
「彼女は」と言う、ダンブルドアの表情は、とても穏やかだ。

「彼女は、やさしすぎて、大切なもののためなら、強くなりすぎる。いつか押しつぶされてしまって、この手も届かぬ、どこか遠いところに行ってしまう気がしての」
「そんなこと。彼女には、あなたがいる」リーマスは思わず、感情的になってしまった。
「あなたこそ、彼女にとって太陽のような存在なんです」
そのときだけ、ダンブルドアはうれしそうに微笑んだ。

「彼女がわしを慕ってくれていることは、じゅうぶんに伝わっておるよ」

自分のことを、自分よりも許し、受け入れてくれて、居場所を与えてくれる。ダンブルドアに、リーマスも感謝を感じている。言葉では伝えきれないほどだ。彼がいなければ、いまの自分はあり得なかったのだから。
だからこそ、ダンブルドアを裏切るなど、許されない。

「だが、彼女にはもう、さびしい思いをさせたくないんじゃ」

高く、遠い場所から、光を照らす太陽より、となりで自分の手を取ってくれる存在が必要なときもある。リーマスには、その意味がよくわかった。友人という存在は、リーマスにとっても、手のなかで輝く、希望の光だったからだ。
ホグワーツに入学して、間もないころだった。期待に胸を膨らませていたものの、思い描いていたその日々が、次第に苦痛になっていた。
自分は月に一度、間違いない周期で、血肉を求めるうずきに身をのた打ち回らせ、己の腕や身体を噛みちぎり、それでも止まない本能に鳴き叫ぶ夜がやってくる。
叫びの屋敷から学校に戻れても、ほとんど医務室を出られない。そうして傷が治っても、すでに次の満月までのカウントダウンが始まっている。
満月から逃れることはできず、リーマスの一生はどこにいようが、その繰り返しなのだと思った。
ほかのみんなが、自分以外の人間なら、だれだってうらやましかった。
「どうして僕だけが、こんな目に合わなきゃいけないんだ」
人と接すれば、接するほど、人狼であるという負い目がつきまとった。塞ぎ込むのに時間はかからなかった。
もし、あのままだったら、自分はとてもグリフィンドール生でいられなかったかもしれない。手を差し伸べてもらえなかったら、人狼の檻から、引っ張り出してもらえなかったら、心まで闇の生き物に食い潰されてしまっていたかもしれない。きっとそうなっていただろう、と、大人になったいまなら、わかる。

『おまえさ』馴れ馴れしく、リーマスを呼ぶ声がした。
『なんていう名前だっけ、たしか……』

授業を終えたばかりの教室で、ひとつ前の席に座っていた少年が、こちらを振り向いていた。リーマスの顔を覗き込んでいるシリウスは、幼いながら整った顔立ちをしており、あのころから女の子たちの注意を引いていた記憶がある。リーマスがそんな女の子だったら、声をかけられただけで、くらりときていたかもしれない。
『同級生の名前くらい、覚えてないのかい』とシリウスの隣に座っていた、寝癖のひどいもうひとりの少年が、呆れたように言うので、リーマスはどきっとした。リーマスも、彼らの名前をまだ覚えていなかったからだ。寝癖の少年は、眼鏡をかけている。

『ごめんよ。こいつ、可愛い女の子を見つけると、すぐに声をかける病気なんだ』

リーマスは反応に困り、シリウスはぽかんとしているリーマスを見て、噴き出した。
『ジェームズ! おまえこそ、同級生の性別くらい、把握しておけよ』
『なにがそんなにおかしいんだい』

ジェームズが、目を丸くしてリーマスを見つめる。それから彼は、はっと気づいたように言うのだ。

「先生は、少し似ている気がします、彼女と」

リーマスは苦笑いを浮かべた。
ちがう。そう言ったのは、ジェームズではない。彼の息子じゃないか。突拍子もなく言われたから、あのときはおどろいた。
相変わらず室内を照らしている月明かりに目を細め、リーマスは、彼女のことを考えた。
彼女も、ダンブルドアのそばにいると陽だまりに包まれるような温かみ以上に、腹の内側が、チクチクするのだろうか。この痛みから逃れるために、いっそ光から目を背け、目を瞑り、耳を塞ぎたくなるだろうか。
弱い自分が、耳元で囁いてくる。すべてを他人のせいにして、自分を守ればいいと。闇はときどき、犯した罪を隠してくれる。甘い誘惑だった。墜ちるのは、這い上がるよりいつだって、簡単すぎるくらいなのだ。
そのとき、部屋にノックの音が響いたが、リーマスは驚かなかった。とりとめもないことを考えていた頭を、前足の上に寝かせたままにしておく。
部屋に近付いてくる足音は、ずっと先から聞こえていた。


「リーマス」


彼女は、机の下で丸くなっているリーマスを見つけると、いつものように声をかけてきた。
リーマスに向かって、ゆっくりと伸びてくる手。
「危ない」と言いたかった。絞り出た声は人の言葉を成さず、獣の唸り声がのどを揺らした。毛を逆立て、噛み締めた鋭い歯を剥き出しにした、唸りだ。
彼女の手が、空中で止まった。
「大丈夫だから」と安心させるように言い聞かせる。
硬い毛が生えたリーマスの背中に、指先が触れる。彼女は、しかしリーマスより緊張しているのが、手のひらから伝わってくるようだった。大人しく撫ぜられているうちに、彼女の強ばりも一緒に解けていくのがわかった。

「満月の夜は、いつも長く感じる」

しばらくして、彼女がふと言った。「私は、どうしたらいいのかな」

頭を持ちあげる。どうかしたのかと、リーマスの顔を覗き込んでくる彼女は、笑みを浮かべていたが、それはいまにも消えそうな灯火を思わせた。黒い瞳のなかで、月明かりがゆらゆらと揺れている。

「どうしたら、よかったのかな」

リーマスが、クゥンと鳴くと、背中を撫ぜる手からいっそう、彼女のやさしさや思いやりが伝わってきた。
ちがうのに。本当は、なぐさめてあげたいのはリーマスのほうなのに、彼女は気づかない。

「大丈夫だよ、リーマス」

月明かりが床を滑っていく。
窓の外へすうっと引いてゆくまで、その夜、彼女はリーマスのそばを離れようとはしなかった。

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