「失礼、これ、君の財布だろう」
買い物から帰宅している私の背後から話し掛けてきた外国人男性。振り向くと、昨日痛めたばかりの体が重く痛む。
この人は知ってる。近所のおば様達が噂している人で、自分もほぼ毎日見かけるから知っている。
夕方、買い物に行く時に通る公園のベンチに、酒と煙草を手に座り、遊んでいる子供達をじっとみている。いや、見ているのかそれとも、私を含めた道を歩く通行者を見ているのかは謎だ。兎に角どこかを眺め、“薄気味悪い変態だ”と近所で悪い評判しか聞かない。
だが不思議と私は嫌な感情は抱かず、“噂はああだが、本当はどんな人なんだろう”と気になっていた。
だから今、それを確かめるチャンスだ。
私は左手首の湿布を撫でながら礼を言う。
「あ……ありがとうございます」
「……財布が落ちたこと、気付かなかったのか?」
手渡された財布。指先が彼の手に触れた。
「はい、考え事をしていて。……今日は荷物と財布一緒にしちゃったから落としちゃったんですね、気を付けなきゃ……主人に怒られちゃう所でした。本当に、本当に助かりました」
「良かったら運ぼうか」
「え?」
「君、家はこの辺なんだろう。いつも見るから」
「は、はい、あの、でも……申し訳ないですし」
「変なことはしないさ。家を知られたくないならその近くまで」
髪はボサボサで髭が生えているが、よく見れば端正な顔立ちをしているし、堂々とした物言いに不信感は湧かなかった。
「……じゃあ、はい、お願い……します」
この日、明日から雨が降るということで大量に買った食材は手に食い込み、痕を作っていた。それを彼、エルヴィンさんは軽々と持つ。
正直今、誰にも見られていなくてよかった。変な噂が立てば、夫にも迷惑がかかってしまうだろう。
サンダルが擦れる音が聞こえる。
「エルヴィンさんはこの辺りにお住まいなんですか?」
「私に興味があるのか?」
「は、いや、えっと……」
「この辺りだ。公園近くのアパートに住んでいる」
「……公園では一体何を?」
私が問いかけると、エルヴィンさんは「何も」と答えた。
「人間観察、もしくは餌を求めるケモノの様に佇んでいるだけ」
「はあ……、なるほど……?」
……よく分からないが何もしていないらしい。
「……体を痛めているのか?」
「え?」
「左半身を庇って歩いているようだが」
自宅前に着く。
「……いえ、ちょっと……なんでもないです。あの、荷物、ありがとうございます」
じっとりした眼差しに背筋がゾクリとする。
私は急に焦ってしまい、不自然にエルヴィンさんから荷物を奪った。
「ああ、構わない。私は夕方、いつもの場所にいるから何かあったらまた」
「はい、またお願いします」
何をまた、お願いすることがあるのか。
好奇心から会話して、荷物を持って貰い、自宅を知られてしまった。存在を知っているとはいえ、近所で有名な“薄気味悪い変態”だ。
私は荷物を手に玄関に。ドアを開けてはいり振り返ると、彼は微妙に口角を上げて手を振っていた。ぎこち無く笑顔で会釈し、すぐさま鍵を閉める。
心臓が忙しく動く。覗き孔を確認すれば、もう彼は居なかった。
−−−
夜。
20時を過ぎた頃に玄関のドアが開く音がした。
「帰ったぞ」
「お……おかえりなさい、ご飯すぐ準備……」
出迎えるとその場で夫に深いキスを落とされる。
「待っ……ん、」
髪と首が掴まれ、体が硬直する。
息が出来ない。私はつい、抵抗してしまう。
押し返された夫。少しよろけて止まった。
「あ……違……ごめんなさい、ごめんなさい!違うの、ごめんなさい!」
ふらりと近付いた夫を見た次の瞬間、鈍痛と共に体が飛ばされ、床に転がっていた。
私は、夫から暴力を振るわれている。
優しい、人だった。愛していた。
だけどもうその人はいない。
床に転がった私の足の間に座り、何度か殴ってきた。そのまま乱暴に服を脱がされる。
前戯もなしに埋められた夫のモノ。ここ数年のセックスでは殆ど濡れない私の膣は直ぐに悲鳴をあげるが、泣いてしまえばまた怒らせてしまう。私は気持ち良さそうな声をなるべくあげて、やり過ごした。
セックスが終わり、髪を引っ張られながらキッチンへ連れられ、ボロボロのまま夕食の支度をした。
「……なあ、」
食事後。後ろから抱き締めてくれる夫。よかった、また元に戻った。
「ごめんな、俺……やめようって思ってたのにまた、お前に酷いことをした。本当にごめんな……」
「ううん、大丈夫、大丈夫だから」
でも、何度目なんだろう。昨日もその前も、この一年近くずっとそう。仕事のストレスもあるんだって最初は思ってた、でも……でも、もう限界だよ。
暴力をしては謝って、また暴力。
離れ、「風呂にいくよ」と言ってリビングを出ていく背中。扉が閉まる瞬間震えが止まらず、へたり込んで泣いた。もちろん、一切声は出さずに。
頭を一瞬、あの人……エルヴィンさんが過ぎった。
“ 何かあったら、また ”
私は、居るとも限らないこの時間に家を抜け出した。今夫は入浴したし、上がるにしても30分は絶対に出てこない。あの公園までは10分もかからない。痛む体で走る。
公園の所のアパートはあの古いアパートだけ。あそこ、なのかな。
公園が近くなり、急に不安になる。確認、だけ。ベンチを見た。
「……あ……」
居ない、それはそうだ。当たり前だ。
「……あ、は……早く、帰らなきゃ、」
「奥さん」
暗がりから声がした。
驚いてよく見れば、あのサンダルの音がした。
「……エルヴィン、さん」
「何してるんだ、こんな時間に……そんな格好で」
街灯に照らされた私からはエルヴィンさんの姿は見えないが、近付いてくれて漸く姿が確認できた。何故かとても安心する。エルヴィンさんは手に財布を持っているようだ。
「い、え、お散歩、です」
「散歩、か」
「はい、エルヴィンさんは……お買い物ですか?」
「ああ、ちょっとコンビニに。だが気が変わったから帰る。……君は?」
「……は、」
気だるそうな手が頬を撫でた。
ピリ、と痛みが走る。さっき夫が殴った場所だ。
「君も一緒に来るか?」
頬を撫でていた手がするりと降りて、差し出された。
私は上手く力が入らない腕を伸ばし、エルヴィンさんの大きな手に触れると、その手がしっかりと握り返し、引き寄せられた。
「……よく、耐えたな」
頭上で聞こえた優しい声。
涙が勝手に溢れ出た。
「……さあ、まだ夜は冷える。……風呂も必要だろう。丁度昨日ガス料金を支払いしたからガスも電気も通ったんだ。シャワーを浴びるといい」
離れて優しく肩を抱かれる。
私は体をエルヴィンさんに預けながら、エルヴィンさんと共に街灯の下から闇の中へと消えた。
- Fin -
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