外は雨が絶えず降り続いている。
 
 たった今、エルヴィンは恋人のサラと口論になり、サラが部屋を飛び出して行ったところだ。
 手紙や小物のあるベッドサイドチェストの中、最深部のさらに端に寄せられた指輪(それ)は、今もまだ気の迷い・・・・としてしまわれたまま。
 
 呆然と、無気力に開いたままの扉を眺めながら、ふと、エルヴィンは記憶の本棚に手を掛けた。
 
 ───


「分隊長! お疲れ様です!」
「ああ、お疲れ様」
 サラはエルヴィンよりもひと回り下の年齢で、出会った当時、エルヴィンは分隊長、サラは新兵だった。
 まさに、エルヴィンを目当てとして入団したと堂々と宣言していたサラの噂は、エルヴィンとその周りにも届いていた。
「エルヴィン……あの子だよね、サラって子。随分とあなたに熱心だけど、大丈夫なの?」
「ああ、今のところ何も支障はない。それに、あの年齢の子どもならすぐに飽きるさ。時間が解決するのを待つのみだな」
「ふーん? とか言って、あんなに堂々と好き好き言われて、悪い気はしてなかったりして」
「冗談はよせ。それより仕事だ、明日の期限に案書が提出されなかったら、次回の壁外調査でお前の班だけ留守番にすると団長が」
「あー、はいはい、分かった! 分かりましたよ! すいませんでしたね!」
 エルヴィンに言われ、手を振りながら背を向けて去っていくハンジ。ハンジの言っていたことは当たっている……訳でもなく、エルヴィン自身、サラのことは憧れと恋を勘違いしているとして処理していた。
 
 しかし、壁外調査を幾度と越えたある日。
 噂さえパッタリだったサラが、壁外調査も控えていない、何も無い夜にエルヴィンの寝室を訪れたのだ。寝巻き姿のサラは泣き出し、噂好きに知られては面倒だと部屋に入れた。
 その日は涙するサラをただ慰めていたが、次の日、また次の日と訪れるサラに、エルヴィンはどこか待ち遠しさを感じるようにまでなった。サラが訪れない日には、小さく溜息をついて早めに横になった。
 
 そこから二人が恋人同士になるまでに時間は掛からず、いつしかエルヴィンのなかで、サラは大きな存在になっていた。
 ただ、サラと交際を初めてから一度も、愛の言葉を伝えたことは無かった。先の壁外調査、いつ自分がこの世から去って、愛の言葉を伝えたがために、サラが辛い思いをしたら。そう考えては、いいや、サラはそれを伝えただけで苦しむような女ではない、と、自分の中で葛藤していた。なんと、その葛藤は数年間続き、その間に団長に就任し、年齢も四十前になった。世間ではとっくに結婚していてもおかしくはない年齢だが、立場や老い先を考えるとなかなか踏ん切りはつかず。
 
 少し前、酔った勢いでナイルと入った宝石店。
 サラのイメージを伝えれば、値段はそこそこ良い婚約指輪を提案され、指輪ソレを酔ったナイルに「思い出はプライスレスだ」と訳の分からないアドバイスを受けて購入。
 後程、調査兵団団長宛の小包には、丁寧な包装とメッセージカードと一緒に、サラの指にぴったりであろう指輪が入っていた。それを一時の気の迷いとして、自分への戒めとして、静かにチェストへしまい込んだ。
 
 そしてエルヴィンは、初めて喧嘩した日のことも思い出した。
 あの日も、今日のように酷い雨だったのをよく覚えている。
 
 サラは、迫る自分の死期を予感し、恐怖していた。その胸の内を聞いたエルヴィンは、「調査兵団に入ったからには常につきまとう感情だ」とサラに慰めとして言葉を掛けたが、そんな話が聞きたいのではないと言われ、次第に普段の不満や、本当に愛しているのかという話になり、つい、「厄介なことになった」と呟いてしまった。それは、こうなるより先に、愛の言葉を伝えていれば、という後悔の念から出た言葉だったが、タイミングもあり、サラは自分のことだと思って部屋を飛び出した。
 あの時はあとを追わなかったが、戻ってきたサラに謝って事なきを得た。
 
 ───
 
 「……そうか、俺が……」
 
 エルヴィンは自分の後ろにあったチェストへ向かい、引き出しを全て出した。中にある手紙や、小物は全て、サラからの贈り物だ。その中を掻き分けるようにして掴んだ小さな箱。少し雑に開けば、あの日の気の迷いが手の中で嘘のように光り輝き、今この瞬間きもち真実ほんものにすべきと訴えていた。
 
 指輪を掴み、箱をそのまま部屋に置いてサラを追った。
 
 ───
 
 「エルヴィン、愛してる」
 「なんだ、急に」
 「ん、幸せだって感じたら、言うようにしようと思って」
 「はは、そうか。……今、幸せだと感じたのか?」
 「うん、だって、エルヴィンが目の前にいるんだから。幸せに決まってるでしょ?」
 
 彼女はきっとどこか不安なままなのだろう。ことある事に笑顔で愛を紡ぐその唇に黙って口付けし、身体に愛を刻む度にそれを喜んだサラ。不確かなものでしかない俺からの気持ちに、いつも泣いていたかもしれない。幾度か、目を腫らしていたが、それを互いの為として、知らないフリをしてきた。本当に情けない、不甲斐ない男だ。
 
 脳裏を掠める思い出の中のサラはいつも笑顔だったが、どこか、寂しげだったように思う。
 

 ───

 
 サラの部屋には姿がなかった、つまり外だ。
 エルヴィンは木造の階段を降りて、兵舎裏口の扉を押し開けた。
 左右を見るがサラの姿はなかった。ここは左に進むことにした。なんとなくだ。
 エルヴィンは降りしきる雨の中、整髪料で整えた髪が肌に張り付いてくるのをかきあげて街に出る。

 この雨だ。街に人の姿は無い。
 
 「サラ……、サラ!!」
 サラの名前を呼ぶ度、鼻の奥がつんとして、込み上げそうになる。サラはきっと今、泣いている。時折、ポケットの中の指輪を確認する。
 「……サラ」
 指輪に触れると、酷くサラが恋しくなり、また名前を呼んだ。
 
 ───
 

 大通りから、微かにエルヴィンの声がする。サラは大通りから一歩入った路地の壁にもたれ、ぶつけようも、どうしようもできない気持ちに、涙は止まらなかった。
 
 今回の喧嘩というのも、どこかデジャヴを感じるものだったが、少し違った。
 
 「私が先に死んでも、悲しまずに、君は次の幸せを探すんだ」
 エルヴィンからのこの言葉。気遣いの言葉だと知っていた。だが、続く精鋭達の死に、不安と恐怖が蘇っていた矢先のこの言葉に、サラは素直に頷くことは出来なかったのだ。
 「私は、エルヴィンのために死ぬ覚悟はできてる」、そう言えば、「……個人の情に流され、無駄死にすることは許さない」、そう、団長・・からの返事が返ってきた。
 
 思えば、不純な動機で入団したこの調査兵団。
 サラは精鋭達の仲間に入るほど、長く生き残った。壁外調査で、新兵の三割が死ぬこの兵団で、サラは何年もエルヴィンと共に生きた。こんな言葉が欲しかったわけじゃない。二人に未来はなくても、それでも。ただ一言の愛の言葉さえ。
 
 「エルヴィン、愛してる……愛してるのに、」
 「ああ、俺も愛してる」
 
 突然聞こえた愛しい(ひと)の声に、顔を上げる。
 そこには肩で息をしながらこちらを見下ろすエルヴィンが、ずぶ濡れで立っていた。
 「探したぞ」
 「エル、ヴィン……」

 涙なのか、雨なのか分からないが、水滴がしきりに頬を伝って地面の雨水に落ち、溶けて流れていく。
 「……今、愛してるって、」
 「ああ、言った。言わないでおくつもりでいたんだが、こうも逃げられてばかりでは……。そろそろ捕まえておかないと」
 「まだ二回だけだよ」
 「まだ、ってことはまた次もあるのか? 参ったな」
 エルヴィンが膝を抱えて座るサラに近付いて、膝をついて抱き締めた。体は雨に濡れ、冷えきってしまっている。その体を温めるように、サラに言い聞かせた。
 「サラ、俺は君を愛してる。たったこのひと言なのにな。情けないよ。……遅くなってすまなかった」
 サラは泣きながらエルヴィンを抱き締め返した。
「……遅すぎ、です……」
 涙声のまま、サラは笑っているようだった。エルヴィンはサラから離れ、頬の雨粒を拭って、手を取った。そして、ずっと手の中に握り締めていた指輪きもちをサラの左手薬指にゆっくりと填め、そこに誓いを込めたキスを落とした。

「受け取ってくれないか」

 二人の周りだけ、雨音が、消える様で。

「サラ・アナスタシア、私と結婚して欲しい」

 サラはエルヴィンの言葉に、顔を手で覆いながらただ涙を流した。エルヴィンは笑って、サラの手に自分の手を重ねながら「返事を聞かせて」と言った。
「……ずるい、ずるいよ、こんな……こんなの、“はい”に決まってる……っ、」
「はは、そうか……、良かった……。サラ」
「……っはい、」
「愛してるよ」
「はい、私も……愛してます」
 エルヴィンはサラを抱き締め、どちらともなく口付けた。
その二人を祝福するかのように雨は徐々に弱まり、二人が手を繋いで兵舎に戻る頃、壁の向こうのそら、雲の合間からは、いくつもの美しい光芒が差し始めていた。
 
 -Fin-



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