乾いた空気を息を吸えば、熱気を感じて、つい浅い呼吸になる。

季節は夏。
今年は特に暑く感じられ、壁内では毎年、この時期になると町の子供たちが川で水遊びをしているのを見かけて、夏を実感する。


「団長、いけません!私には婚約者が……、っ」
「上官に逆らうのか、君は」
「そういう訳ではっ、」
「無駄に怪我をしたくなければ大人しく従え。私も、乱暴するのは好きではないんだ」

兵団の長である、エルヴィン・スミスと関係を持ったのは、兵団近くの川から子供たちの無邪気な声が響く、私が彼の副官に就任してから丁度三ヶ月程経過した真夏の昼間。
事後は、窓の傍にあるチェストから落ち、割れた花瓶の破片と、床に広がった水に必死に吸い付く花をひとりソファーから見下ろしていた。

私は兵士として五年目。
今月、突如言い渡された副官への就任に不満はなく、団長の直属の部下でいられることを、少し年上で農家をやっている恋人に嬉々として報告したことは記憶に新しい。

これからは彼の下で副官として、兵団を支えていける。こんなに喜ばしいことはないと、信じて疑わなかった。

しかし。
彼からの熱のある眼差しに、私の名前を呼ぶ声に違和感を覚え始めたのは、就任してから初めての壁外調査後。

これに関してはただの気のせいとして処理したが、今考えれば、間違いではなかったのかもしれない。

◇◇

近頃、エルヴィンからの誘い≠ヘ多くなった。
数ヶ月後、私は婚約者が暮らしている村へと帰る予定だ。その申請を出してからというもの、エルヴィンは時に場所を選ばず私の身体を好きにした。

「失礼致します。……おはようございます、団長」
「ああ、おはよう。出発の準備は出来たか?」

ジャケットを羽織る彼は、私を一切見ることもなく水を飲み、手早く書類や本を鞄に入れる。

「はい。本日も全て滞りなく手配は済んでおります」
「そうか、ありがとう」

こちらに振り返り、歩き出したエルヴィンが私にゆっくりと迫る。後退したが、すぐにドアに背中が当たって逃げ場を失った私の首を撫でて掴み、唇が触れそうな距離で止まる。

「……私から逃げられると思うな」

わかったな?≠ニ、エルヴィンは深くキスをする。
エルヴィンを突き飛ばし拒否すると、私を一瞥《いちべつ》して部屋を出ていく。

私は口元を拭い、エルヴィンの鞄を手にして、副官として急ぎ足で後を追った。

今日は王都へ向かうために馬車に乗りこむ。もちろん、エルヴィンと二人きりだ。
異様な空気を纏う車内からエルヴィンが出発の合図を送ると、馬車は少し揺れ、移動を開始する。

エルヴィンは出発してすぐに長い足を組み、鞄から本を取り出して読み始めたため、私は少し安心した。さすがに馬車では何もされないらしい、と、静かに深呼吸して窓の外を眺めた。

青々とした緑、空には白く、分厚い雲が浮かび、空から照りつける陽射《ひざ》しで、遠くの風景が心做しかブレて見える。
馬車の窓から入り込む風は温いものばかりだが、流れる汗がそれをひんやりとしたものに感じさせる。

この季節は、この兵服にはつらい時期ではあるが、四季のひとつとして夏は好きだ。

かれこれ数十分。
窓を見ていると突然肩を掴まれ、唇が奪われる。
エルヴィンは読んでいた本が座席から落ちることも気にせず、私の手首を掴んで深くキスをし、唾液を絡め、首筋を伝う汗を舐めた。

「……はは、よく出来た副官だな」

彼はこういう所∴ネ外は素晴らしい人間で、兵団、いや、人類に無くてはならない存在だと理解している。

そして彼が今、少し気がたっていることも。

故に私は、窓が開いていようがいまいが、騒ぎ立てることはしない。

それを分かっているエルヴィンは、私のワイシャツのボタンを見せつけるようにゆっくりと外していき、左右にずらして胸元を露出させる。

「いつ見てもお前の体は美しい」

なんの返事もせず、少しの抵抗にエルヴィンの肩を押すがそれも虚しく、ワイシャツの下にいくつか噛み跡を残された。

唇を噛みながら激痛に耐え、離れた彼の視線と噛み跡をみて婚約者の顔が浮かび、胸が苦しくなった。

「近頃はすっかり雌の顔をするようになったな。私の女になる気にはなったか?」
「私……には、婚約者が……」
「……いつ死ぬかも分からないお前を、一般人の男がいつまで待ち続けることが出来るだろうな?」

真夏の空の碧《あお》をその瞳の中に閉じ込めた彼。

「ひ、どい……」
「いい表情《かお》だ」

彼は本当に酷い人間《ひと》だ。

泣きそうになり、鼻の奥が痛くなる。
だが泣いてしまえばエルヴィンの加虐心をくすぐるばかりで、目の前の彼には、慈悲の心はない。

私は再び行われる上官からの悪戯を静かに受け入れた。


◇◇


王都での用事は、当初の予定より遥かに早い段階で片付き、一応と取っておいた宿でひとり、時間を持て余していた。
隣室はエルヴィンな訳だが、私は彼を誘うつもりも無いままにジャケットを脱いで、街へ向かうため部屋を出ようとドアノブに手をかけ、回して部屋を出た瞬間、隣室のドアも開き、上官と鉢合わせる。

「どこへ行く」
「時間もありますので、街に。何か買って参りましょうか」
「……いや、私も行こう」

横を宿の者が通過した。
兵服を脱いでいても、私達はただの兵士同士に見えただろうか。

エルヴィンと私は宿から、街に出た。
普段、彼と並んで歩くと歩幅が違うため少し苦労するが、今日は少しゆっくりと歩くため、比較的楽だった。

私達は遅めの昼食をとり、王都をまだ知らない私の為にとエルヴィンに案内されながら少し辺りを散策する。

「少し休憩しようか」
「はい、ありがとうございます」

噴水のある広場。
ベンチに掛けて空を見る。
少し離れた場所で子どもが数人遊んでいたが、いつの間にか親が迎えに来て帰って行った。

広場にはふたりきり。
私は子どもを見ながら、愛する彼のことを想っていたが、子どもが帰っていくことで肌がチクチクする感覚がした。

名前を呼ばれ、私が恐る恐る隣を見ると、彼の手のひらが優しく私の頬に触れた。

「団長、いけません、今は」

夏空の下。
蝉の鳴く声もないこの広場にも、ひとつ通りをぬけた場所にある時計塔からの時間を報せる鐘が聞こえ、鳩が飛び立つ音が響く。

彼の手はひどく優しい。
同時に、寂しそうにも見えて、私は唇を重ねることを拒むことが出来なかった。

「……団長、」

鐘の音と重ねて、彼の唇が動いたが、私には何も聴こえず、すぐに立ち上がったエルヴィンの背中をただ追うことしか出来なかった。

今までに無い彼の表情や触れ方に戸惑いながらも、部屋に着いた私はどうしても気に掛かり、夜、エルヴィンの部屋のドアをノックしていた。

中から顔を出したエルヴィンはすっかり髪もおろし、少しだけ酒を飲んでいるようだった。

「お休みのところすみません。団長の様子が気になり……」
「何も無いさ、早く君も休むといい」
「団長、待って……!待ってください!」
「お休み」

そんな顔しないで。

「団長、部屋に入れて下さい」

私がそう言えば、少し驚いた顔をしながら私を静かに部屋に招き入れてくれた。

この後がどうなる、とか、どうしよう、だとか、色々頭に巡らせていたのだが、今日上≠ノ提出した筈の書類が裂かれ、部屋に散らばっているのを見て私は息をすることを一瞬忘れた。

「……すまない、少し散らかってるから部屋に入れたくなかった」

屈んで破れた紙を拾う姿。
今日の会議は私は同席していなかった。正しくは、させてもらえなかった。
だから彼に何があったのか、何を言われたのかは私は知らないが、いつも彼はこうして独り戦っていたんだと知り、私は涙が零れた。

「……はは、何故君が泣いてるんだ」
「いえ、すみません」
「君は本当にお人好しだし、良い人だと思う。良い人過ぎる、とも」

拾い集めた紙をクシャクシャにしてゴミ箱に捨てた。

「……哀れだと思うか」

こちらに背を向けたまま。

「俺を、可哀想だと思ってくれるか」

ベッドに歩いて座り、項垂れる彼。

「……はい」

私は彼に近付いて、エルヴィンを抱きしめた。

「……また襲われたいのか」
「それでも構いません」
「本当にするぞ」
「……今なら構いません、今は」

私の背に手が回され、シャツの背を掴んで少し引き寄せたまま、エルヴィンは黙ったまま動かなくなった。

まさか副官になるとも思わなかった、いち兵士の私が、いち兵団を率いる団長の考えは分かるはずもないし、だから私は無駄に何かを聞いたりすることはできなかったし、今まで身体を、肌を重ねたが埋まらなかった溝を、今この時その理由を知れた気がして、涙が溢れた。

「エルヴィン、」

私は呼びかけ、彼が顔を上げると、頬に手をやりキスをした。それが次第に深く、熱を帯びていくのを感じて、私は少し戸惑った。

ただの行為だと割り切っていたはずなのに。

私が初めて、彼を求めた瞬間だった。

その夜、私達はお互いの立場も、今日この場所に来た意味も忘れるかのように求め合った。

まるで、お互いを愛し合う恋人のように。

その翌日。
私達は、夏空が覗く帰りの馬車の中でも深く求め合い、兵団の敷地に戻る頃にはお互いに惜しみながら団長と副官に戻った。

その日からまた、私達は人目を盗んでは唇を重ね、夜には闇夜に紛れて身体を重ねた。

しかしその意味は以前とはまた少し違うものにはなるのだけど。


◇◇

それからまたふた月経過し、少し秋の気配が近づいてきている。
遠くにあった分厚い雲も、いつの間にか姿を見なくなり、季節の変わり目だからか、強い雨が降ったり止んだりしていた。

私達はその間に壁外調査を二度終え、かなり忙しい日々が続いていたが、徐々にそれは落ち着き始めている。

私はエルヴィンに話があったのと同時に、丁度のタイミングで彼に呼ばれ、団長室へと来ていた。

「団長、お呼びでしょうか」
「ああ、こちらへ」

机にはいくらか書類が積まれており、エルヴィンはその手を止めて私を見る。

「今日限りで、君に兵団を辞めてもらうことにした」
「……は、?」
「君は故郷の婚約者のもとへ帰れ」
「待ってください、何を」
「今までご苦労。荷物をまとめておけ、夕刻には馬車を手配しておく」
「エルヴィン、何で……」

早口で説明する彼と目が合わない。
今までは、目を合わせないことに何も感じなかった。
でも今は、違う。

「私が何かいらないことをしましたか?私は兵士として至らないところばかりで、副官として役に立たないからですか?」
「違う」
「じゃあ、なんで……」
「君を死地へと送り込む勇気がないからだ。君が、死んでしまうことを、俺は恐れている」
「団長なら、そんな弱気なことは言わないでください、私も覚悟して兵士になって……」
「それでも、俺は君を愛してしまった。俺は……俺は君が思うよりずっと……弱い人間なんだ」

また、そんな顔しないで。

「……私はあなたの隣で死にたい、」
「駄目だ」
「私もあなたを……愛しています。……婚約者とも、先程婚約を解消してきました。私には兵団《ここ》が帰る場所で。あなたの隣が、私の死に場所なんです」

エルヴィンの隣に立ち、膝を着いた。

「……私を傍においてください。私は死にません。私が死ぬ時は、あなたと一緒です」
「……誓えるか?」
「はい、誓います。……あなたの傍に、いさせてください」

この時のエルヴィンはまるで少しだけこどものようで、悲しげに、それでいてどこか少しだけ嬉しそうに微笑んだ。

「……俺より先に死ぬことは絶対に許さない」
「はい、もちろん」


あなたを独りにはさせない。
これから先も、ずっと。



Fin.
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