Moratorium | ナノ



なけなしの感情を食い潰す



 春は嫌いだ。そう言うと大半の人たちは「あり得ない」と言いたげな顔をしてぼくを見る。花粉症の人は、うんうんと頷いてくれるのだが、ぼくが春を好きでない理由は花粉症だからではないし、風が強いからでも、天気が不安定だからでもない。ただ本当に、何となく春というやつがいけ好かないだけなのだ。好き嫌いがあるのはぼくのセオリーに反するのだけれど、こればかりは事実なのだからどうしようもない。
『春眠不覚暁 処処聞啼鳥 夜来風雨聲 花落知多少』
 こう詠んだのは、確か孟浩然だっただろうか。古典の、特に漢文がぼくは苦手で、中学生の頃から渋い顔をしながら授業を受けていたことを覚えている。
 春眠暁を覚えず。その言葉がしっくりくるような光景が、ぼくの前には広がっている。自習であるのを良いことに、机に突っ伏して寝るクラスメイトたち。起きている者といえば、真面目な樋口やゲームに熱中するゲーマーらしい男子生徒。それから、ガールズトークに精を出す騒がしい連中ばかりである。
 ぼくは何をするでもなく、自分の席でぼおっとクラスの様子を眺めていた。あの集団に自ら混ざりにいく気には到底なれないし、かと言ってうたた寝をする気分でもない。やることもやりたいこともないのだから、ただ座って物思いや人間観察に耽るほかないのである。そんなぼくにわざわざ話し掛けてくるクラスメイトもおらず、煩わしい喧騒を除けば、ここは中々に居心地の良い空間だった。
 時折窓の外に目をやると、春の良く晴れた蒼穹が視界に飛び込んでくる。風にそよぐ青葉が清々しい香りを運んでくるようだった。それら派手な女子高生が纏う、きつい香水の香りよりも、ずっと安らげるものだろうな、と思った。そう想像すればするほど、この狭苦しい教室から抜け出して、どこかの広い草原に寝転びたくもなるものだ。気ままに微睡んで、ときには思案して、またあるときは木登りでもしてみようか。
 しかし一瞬強く吹いた風は、ぼくの妄想ごと木の葉を散らしてしまう。かといって落胆するわけでもなく、ぼくはまだ窓ガラスを見つめていた。その向こう側では、一年生と思しき生徒たちが五十メートル走のタイムを計っている。そこで次の授業がスポーツテストだということを思い出し、何だか少し憂鬱になった。運動が苦手というわけではないけれど、こんな麗らかな春の陽気の下で汗を流して全力疾走したいと思うほど、ぼくは体育会系じゃあない。動くことが酷く億劫に感じた。

「おーいユキトー起きてっかー」
「……起きてるけど。何か用?」
「いやあ、恋バナに花でも咲かせようかと」
「恋バナには興味ない。というか、ぼくには話すことがないし」
「年頃の男子だぜ? 色恋沙汰のひとつやふたつ、隠し持ってんだろ?」
「ない」
「即否定かよ! つーか俺、ユキトはリサちゃんと付き合ってるもんだと思ってたんだけど」
「……は?」

 突然絡んできた鞍馬は、至極真剣な顔で突拍子もない台詞を吐き出した。眉がひくり、と動くのが自分でも分かった。ぼくを見つめる鞍馬越しにクラスの様子をちら見すると、何人かの男子生徒がぼくらの方に注目している。ふうん、あいつら全員、立花のことが気になるのか。意地悪なことを言って彼らがあたふたする姿を見たい、と馬鹿げた加虐心が首をもたげたのはほんの一瞬だけで、その熱は急激に冷めていった。
 余計なことを言って誤解を招いてしまえば、迷惑を被るのはぼくだけではない。冗談が広まって立花の芸能生活にもしも支障をきたしてしまったら、一体どう彼女に顔向け出来ようか。もう、出来ることならば、泣く彼女の姿は見たくない。

「立花とはただの幼馴染だよ」
「幼馴染……? まじで!? 初耳なんだけど!」
「別に大っぴらにすることじゃないし」
「ま、幼馴染だっつーんなら一安心だな! もし俺とリサちゃんが付き合うことになっても泣くなよ!」

 からからと快活に笑いながら、鞍馬はぼくの肩に腕を回す。はて、ぼくと彼はここまで仲の良い友人同士だっただろうか。否、絡みは多い方ではないし、同じクラスになったのだって今年が初めてだ。そうして、ここでぼくは初めて、鞍馬セイヤという同級生がとても鬱陶しく馴れ馴れしい、ぼくにとって苦手な人種なのだと思い知るのだ。
 例えるならば、春よりも夏よりも眩しくて騒がしいのが鞍馬。対するぼくは秋よりも冬よりも冷え切った人間だと自負していて、それはきっと周知のことなのだろう。春も、夏も、ぼくは好きではないから。だからいつまで経っても、ぼくという人間は彼に対して好意は抱けない。そして、春めいたむず痒い感情も「ノー」の一言で捩じ伏せたくなるのだ。







あとがき
お題「温度差」/相思相愛さまに提出
主催者のやすさん、ありがとうございました。


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