Moratorium | ナノ



空白距離



 いつまで、子供なんだろう。
 どこから、大人なんだろう。




 水面を滑る月の光が、青年を誘うように揺らめいた。ゆらゆら、ゆらゆらと。闇は確かに、水中で息づいていた。
 誘われるまま、彼――松野ユキトは欄干に手をかけた。他意はなかった。ただ、落ちてみたいと彼は願った。川面に投影された月に飛び込めば、どこか遠い世界へ行ける気がしたから。彼はこの理不尽な世界から、逃避してしまいたいと思っていた。
 しかしユキトの愚かしい行為は、もう慣れっこになった体温によって制止されてしまうのだった。グレーのパーカにショートパンツを着ただけの、ラフな格好をした少女。彼女――立花リサは、黒目がちの丸い瞳を二度瞬かせた。


「飛び込もうとしてたね。ベランダから見えたの」
「出来心だよ」
「松野のそういう所、ちっとも変わってない」
「そんな簡単に変われやしないさ」


 返す言葉がなくなったのか、リサは黙り込んだ。傷みの少ないセミロングの黒髪が、熱気を孕んだ風に揺れた。
 ユキトはもう一度、橋の下を覗き込んだ。リサはユキトを止めなかった。自分が彼の腕を掴んでしまえば、今度こそ制止を振り切って川へ飛び込んでしまう気がしたからだ。何となく、そんな気がした。
 もちろん今のユキトは本気で飛び込もうなどと思ってはいなかったし、水面の月に触れてどこかへワープ出来るとも思っていなかった。リサに触れられた時点で、彼の目の前には現実が戻ってきてしまっていたのだ。彼はもう、夢見がちな少年を卒業したのだ。いつ卒業したのかは、本人さえも忘れていた。
 ある世界を生きている者にしか、その場所から逃げ出すことは出来ない。現実を生きている人間にしか、現実逃避は出来ないのだ。そして彼らは、現実から逃げることが不可能と知っているのに、幾度も試みては行き詰まる。
 ユキトはただの高校生だ。何か特別な能力を持っている訳ではない。突出した個性がある訳でもない。どちらかと言えば大人しい、平凡な男子高校生だ。
 一方のリサは、音楽の分野において秀でていた。若者を対象とした新人発掘オーディションに参加し、見事グランプリを勝ち取った彼女は、近々有名プロダクションからのデビューが決まっている。見目もよく、成績も申し分ない。非凡な少女。
 そんなリサを、ユキトは全く嫉まなかった訳ではない。彼らは幼馴染みだ。中学校に上がるまで大差なかったはずの自分たちに、気付けば溝が生まれていた。
 スタート時点こそ同じだった。リサが上手く駆けた生涯という障害物競争は、ユキトにとって難しすぎたのだ。あるいは、挑むための準備が不足していたのかもしれない。
 事実、リサは努力を重ねてきた。歌を趣味で終わらせないために、人知れず努力を続けてきたのだ。当然そのことを知らないユキトが抱いたのは、端から見ればちっぽけな嫉妬と焦燥感だった。
 そのどろついた感情が払拭されたのは、一体いつのことだっただろうか。川縁で歌う彼女の姿を見た時。密かな涙を見た時。寂しい笑顔を向けられた時。ユキト自身でさえ分からないくらいに、心当たりはありすぎた。ユキトもリサも、あの頃はまだ、子供だったのだ。子供であることをきちんと自覚していた。


「なあ、どうしたら大人になるんだと思う?」
「……二十歳になったら、かなあ」
「ふうん。つまらない回答だな」
「じゃあ、松野はどう思うの」
「そうだな、作り笑いを覚えた時からだと思ってるよ、ぼくは。無邪気に笑えなくなった時。不本意な笑顔を浮かべてしまえるようになった時。そこから、子供じゃなくなるんだ」


 リサはよく分からないとでも言いたげな表情を浮かべた。整った眉がひそめられる。リサのリアクションはいつも分かり易くて、助かることもあれば不快に感じさせることもある。今はそのどちらでもない気がして、ユキトは彼女を見据えた。濃い睫毛に星屑が絡んで、きらきらと光っていた。


「知らない間に難しいこと、考えるようになったんだね」
「いつまでも能天気な子供のままじゃいられないさ。立花にもその内分かるよ」
「……松野は早く大人になりたいの?」


 まるで、時間が止まったようだった。川のせせらぎも、遠くで鳴る踏切の音も、ふたり分の呼吸をする音も絶えず聞こえているのに、時の流れだけが止まる。もちろんそんなことが起こるはずもなく、腕時計の長針は、カチリと正確に一分を刻んだ。瞬間的に滞っていた時間が溢れ出す。


「……そうだな、子供でいたくはないけど、大人にもなりたくない。そんな気分だ」
「ワガママだね」


 実際その通りだ、とユキトは思った。あれだけ悪足掻きにも似た思考をしておいて、結局の所どちらからも逸脱出来ていない。優柔不断とも言えるだろうが、つまる所は彼自身のエゴに基づく単なる我儘でしかないのである。
 しかしユキトも好きで我儘な人間を演じている訳ではない。選択未遂。そのもどかしさはまさに、成長するに連れて彼女のことを下の名前で呼べなくなってしまった彼の心境とまるで同じだ。臆病が巣食っているのかもしれない、と彼は密やかに切なさを抱いた。


「立花、ぼくはそろそろ部屋に戻るよ」
「……じゃあ、わたしも。またね、松野」


 別れ際に手は振らなかった。それ以上の言葉もなかった。彼らはいつもそうだ。適当に会って、適当に話して、気が付けば各々の帰途についている。馬鹿みたいにフリーダムなのだ。
 それでも彼らにとってはその気紛れさが心地よかったし、そもそも気分屋という名前でも付けておかないと、大切な何かを失ってしまう気がしたのだ。自分の一部である、何かを。それは、なくしてしまったら元に戻らないもの。砂の城が崩れてしまえば、もう二度と元通りにならないように。そこには、アイデンティティや自己も含まれているようだった。
 時計の針は、もうすぐ午後十一時を指そうとしていた。








あとがき
学校へ提出したものですが。タイトルはふぁるとさんより。



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