short | ナノ



ミルクと小波



 眠って、それから目を覚ました時、もしも全てが終わっていたら。悪い事なんて本当は夢で、ただ自分が見ていた悪夢なんだって。きみはそう思った事、ない?

 それは凍えるような、冬の夜の事だった。潮の香りのしない冷風が、剥き出しの素肌を刺す。そんな気温だというのに彼は冷たい海水に足を浸して、感情の薄い瞳でどことなく見つめていた。その様があまりにも儚げで、わたしは小さく息を飲む。呼吸をする度に空気が白濁した。
 見惚れていたのだ、彼に。だからわたしは、彼の凜と澄んだ声を上手く拾い上げる事が出来なかった。小波の相乗効果で、聞こえてくる音にはノイズが混ざったかのよう。そんなわたしに目もくれず、彼は独白を続ける。彼の放つ言葉はいつも難しくて、わたしには分からない。


 僕はいつまでだって、微睡んでいたいんだ。夢なら覚めてくれなくて構わない。感情も心も、知らない誰かに受け渡してやりたいくらいだ。得体の知れない痛みは嫌いだ。もう、幸せも不幸せも考えたくないんだよ、僕は。


 彼の言う“眠る”という行為は、一体何を指すのだろう。言葉通り睡眠活動を続ける事なのか。はたまたそれは、死という意味を含んでいるのか。単純な意味合いだったらいいのになあ、なんて思いつつも、やはりわたしには彼の難しい言葉達を理解する事が出来ないままなのだ。
 ちゃぷん。彼が水面を蹴り上げる音が鼓膜を揺する。波立った水面には、ぐにゃりと歪んだ月が浮いていた。それから彼は夜空を仰ぐ。整った横顔だ。鼻梁は高く、睫は長く天を向く。引き結ばれた唇は良い形をしていて、毒を吐き出すには不釣り合いな、それ。あまりにも美し過ぎる顔立ちに、わたしは恐怖さえ感じるのだ。

 悲しい人ね、あなたは。一度だけ彼に、そう言った事がある。すると彼は瞳をゆっくり瞬かせ、自分じゃ分からないよと言葉を漏らした。誰かに甘える事も、誰かに助けを求める事も、誰かを心から信じる事も出来ない、何もかもが下手で不器用な彼。ひとりで勝手に抱え込んでは、その重さに潰されてしまう。彼を想っている人なら、こんなにも近くに居るのに。ほらまた、知らん振り。だから彼は、悲しい人。
 それは例えば、苦い珈琲にミルクとお砂糖を混ぜ込んで甘いミルク珈琲を作り出すように。黒と白の融解、柔らかな色彩。さながら珈琲が彼で、ミルクとお砂糖がわたし。ねえ、そんな風になら、わたし達上手にやっていけると思うの。わたしはそっと、彼の冷え切った身体を抱き締めた。涙の落ちる、音がした。


 あなたが世界を閉じるその時に、わたしも世界を閉じるから。だから、あなたが眠りにつくその時には、ただあなたの傍であなたの目覚めを待たせて頂戴。








あとがき
ふわふわして冷たいデザートみたいな。


back

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -