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廃れた愛の標本



 甘ったれてんじゃねえぞ、弱虫。
 酷く疲れた顔をした誰かが、鏡の中からわたしも睨んでいる。いつまでも我儘ばっかり言ってんなよ。そう悪態をつく誰かさんの目の下には、くっきりと隈が浮かんでいた。瞼も腫れぼったい。ねえ、やめてよ。そんなに凄まないで。そう切願しようとした所ではっと気付く。これはわたしだ。血色が悪く浮腫んだ顔でこちらを見据える女。恐る恐る頬に触れてみれば、鏡の中のわたしも同じ動きをしてみせる。何だか腹立たしくて見返してやりたくて、どうにか笑ってやろうとしたけれど、そんな気力もなく引きつった笑みのようなものが一瞬見えただけだった。
 わたしは疲れていた。原因は分からないし医者にかかる気も更々なかったが、とにかくわたしは疲労困憊だったのだ。眠っても眠っても疲労感の拭えない毎日。やることなすことひとつひとつに身が入らなくて、不甲斐ない自分に腹が立った。溜息ばかりが増えて心も荒み、気付けば肌はボロボロだ。「そんなんじゃ恋人に捨てられるわよ」と、先日話した誰かが言っていた気がする。誰だっけ、誰でも良いよ。

「うっわ、ひでえ顔」
「……うるさい」
「寝ろよ」
「今起きたの。というか、どうしてあんたがここに居るの」
「合い鍵」

 銀色の鍵をわたしに向けて掲げて緩く笑った彼は、無遠慮にソファへ腰掛けた。遠い記憶を探って、彼に合い鍵を渡した日を思い出す。一ヶ月前の、雨の日だっただろうか。こいつにわたしの部屋の合い鍵を渡したのは。どうして素直に渡してしまったのかはあまり覚えていない。ただ、目の前でだらしない表情をしている男がわたしの恋人であるというだけで、合い鍵を渡す十分な理由になってしまうのだと思う。
 頼るだけの、甘えるだけの、縋るだけの、守られるだけの、そんな女にはなりたくなかった。彼の優しさをひたすら享受する日常を続けていたら、いつか本物の腑抜けになってしまう気がして。泳ぐことをやめたら死んでしまう鮪のように、いつだって走り続けていないといけないのがわたしという人間だから。
 他人に弱みを見せることが、昔から大嫌いだった。作り物の笑顔を貼り付けて日々を過ごすことはそう難しくなくて、中学生の頃には取り繕った自分が表の世界を謳歌していたように思う。“本当の自分”という奴を奥の方に押し込んでは、苦しいと泣き喚く彼女を無視した。あんたはまだ、こっちに出てきちゃいけないの。他人の助けを求めようとするくらいなら、引っ込んでて。そう言ってやると、もうひとりのわたしは膝を抱えて闇の隅っこでうずくまるのだ。

「……どうして、わたしと付き合っていようと思えるの」
「そりゃあ、すきだし。一緒に居たいって思うのは自然なことだろ?」
「可愛げとか女の子らしさとか、ないんだよ」
「良いんじゃねーの、俺はすきだよ」
「……弱い、だけなのに」
「んー、俺と居るときくらいは、気を抜いても良いと思うんだよね」

 ふとした言葉に胸がじんわりと温かくなって、泣き出しそうな自分が居ることに気が付いた。湧き上がる焦燥感。泣くな、泣くな。甘えようだなんて都合の良いこと考えてんなよ、自分。目頭が熱いのは、きっと錯覚だ。震えそうな唇を噛んだら、口の中に鉄臭さが広がった。血反吐を吐くのは、誰も居ない場所じゃないといけないのに。全身を苛む倦怠感が、更なる哀感を連れてくる気がした。
 甘えちまえ。そう優しく零した彼が、わたしのパサパサな髪を撫でる。やめてよ、見透かさないで、継ぎ接ぎだらけで脆いから壊れちゃうの。そうは思うものの体が動かない。それどころか、まるで意志があるみたいに右手が勝手に彼のシャツを掴もうとするから、わたしは慌てることしか出来ないのだ。心は離れることを望んでいるのに、体がそれを拒んでいる。悪質なアンビバレンス。ただ、手の甲にそっと重ねられた筋張った手の温度だけは、わたしの意志とは関係なく確かにそこにあったのだと思う。








あとがき
疲れていても廃れかけていても息をし続けているあなたへ。


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