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気××と香水



※ドメスティック・ヴァイオレンス


 彼が笑顔を忘れてしまったのは、もういつの事だったでしょう。わたしはあまり、覚えてはいません。彼がどんな笑い方をしていたのかも、彼がどうすれば笑ったのかも、わたしは全て忘れてしまいました。
 小さな部屋に充満する甘い香りは、今では付ける事のないわたしのお気に入りの香水だったと思います。引き出しの奧にしまっておいたピンク色の瓶の事を思い出して、わたしはぐるりと部屋を見渡しました。するとベッドの上に見付けたのは、無造作に置かれた瓶の残骸と恐らく中身だったであろう染み。きっと彼が割ってしまったのでしょう。最近の彼は、家の中にある様々なものを片端から壊していくのが得意でした。
 わたしは緩慢な動作で立ち上がり、ベッドへ向かってのろのろと歩き出しました。大好きだった筈のあの香りも、全てが瓶から出て来てしまうとやはりが強過ぎて、わたしの嗅覚を刺激します。瓶の破片に触れるとそれらがぶつかり合い、かちゃりと音を立てました。


「……何してんだ、よっ!」
「ひっ……あ、あ、ごめんなさ、い……! 瓶、が……割れてたか、ら…危ないと、思って…」
「だから何だよ! お前はそこに居りゃあ良いっつっただろッ!」
「あッ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……! お願いだから殴らないでくださいごめんなさいごめんなさい!」
「うるせえ! 黙れ黙れ!」

 肉塊を殴り付ける鈍い音が部屋に響きました。瞬時に広がる血の味をわたしは口の中で転がしながら、痛みに堪える事しか出来ません。その間にも彼はわたしの身体に傷や痣を増やしてゆきます。痛い、と一言でも声を上げる事すらわたしにはゆるされていませんでした。
 暴力の嵐が漸く収まった頃。彼の吐き出した“あいしてる”の五文字が、どうして真実に聞こえたでしょう。それでも彼は狂おしい程に美しく、哀れで可哀想な人でしたから、わたしはそれを受け入れるしかないのです。どうせふたり共歪みなく歪み切った、単なるキチガイなのですから。








あとがき
キチガイと言えば夢野作品を思い出します。


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