「……雨降ってきたよ」 木の隙間から見えた黒雲の立ちこめる空に嫌な予感を覚えたのはつい先程のこと。悪い勘ばかり当たるものだと名前は頬に落ちてきた雫を拭いつつ顔をしかめた。鬱蒼と生い茂る木々が傘代わりになるものの、葉に溜まった露は雨粒よりも数倍大きな水滴となって降り注ぐから、結局名前の装束はぐっしょり濡れた。彼女と同様に濃藍の装束を一層色濃くして前を歩く八左ヱ門が、常と変わらぬ明るい様子で振り返る。 「通り雨だから、すぐ止むさ」 「せめて蓑傘持ってくれればよかったのに。八左ヱ門が急かすから」 「悪かったって。でも、早く出かけなきゃいけなかったんだ」 「ねえ、どこ行くの? 一体何をしに行くの」 「それはあとのお楽しみだな」 割合強い調子で打ってくる雨粒にめげることなく八左ヱ門は意気揚々と突き進む。今日の彼は常より気もそぞろで、どこへ出かけるのかと問うても曖昧にはぐらかすだけだった。新しい毒虫の散策だったらどうしようと名前はやきもきしていた。出かけようと珍しく八左ヱ門が誘ってくれたから浮かれていたけれど、そもそも何故山道を登る羽目になっているのか。期待した自分が馬鹿みたいだなんて思って、話す口調にも棘が混じる。 「また今度にすればいいのに。わざわざびしょ濡れにならなくたって」 「今日じゃなきゃ駄目ってことはないけど」 「じゃあ今度で良いじゃない」 「でも、いつ見られるかわかんねえからなあ。もう少し我慢してくれるか」 困ったように眉尻を下げて微笑まれれば、名前の顎は自然に引いてしまう。ずるい、ずるい。誰のためにずぶ濡れになってまでついて行ってると思っているのだろう、この男は。「ほら、晴れてきただろ」黒雲の隙間から顔を覗かせた太陽が、にかりと弾ける笑みを照らして眩しい。 「雨、まだ降ってるけど」 「ちょうどよかった! よし、走るぞ名前!」 「ええ?ちょっと、」 生物委員会委員長代理を務める上に、めっぽう山に強く足腰も鍛えられている八左ヱ門と違って、名前は山道には不慣れだった。おまけに雨で濡れていて普段よりも滑りやすい最低の足場なのだ。案の定足を取られすっ転びそうになったところで、八左ヱ門が慌てて手を差し伸べて支えた。 「っすまん、先走った。大丈夫か?」 「……平気」 「すまん!いや、急がなきゃいけねえのはほんとだから、えーっと、このまま行かせてもらうけどいいか?」 「っ好きに、すれば」 名前の都合の良いように解釈すれば、八左ヱ門はほっとしたように見えた。緩く繋がれた手は雨水に濡れてもかすかに温く、名前の身体にじんわり熱を伝染させていくようだった。ほんの少しだけ早足で、けれど今度は名前が通れるように足場を形作ってから彼は手を引いて歩みを進める。普段気が利かない癖に、一度意識が向けば優しさを降り注ぐことを厭わないのが、また。 「……ばーか」 「ん、何か言ったか?」 「なんにも」 無意識で、余計に質が悪い。 やがて開けた場所が見えてくると、八左ヱ門が「あそこだ」と声を弾ませた。暗い森の出口を跨いで、一気に明るくなった視界に一瞬目が眩む。ぎゅっと目を一度閉じてから、名前はゆっくり瞼を開けた。 少し下を覗けば田地が見えるくらいの、見晴らしのよい小さな崖だった。雨は未だ降り止まず、日差しを反射させてちかちか瞬いている。真っ昼間だというのに星の欠片が降るような幻想的な光景だった。 しかしそれよりも名前の目を奪ったのは、灰色の積雲を背景に描かれた七色の虹だった。 赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。暗雲を仄かに色付かせて弧を描く光。直ぐ目の前にあると思って手を伸ばしても届きそうにない。誰が生み出しているのだろう。美しい空の蛇は、滅多にお目に掛かることができない。それも、これ程までに見事なものは。 名前は鮮やかな色彩を添えて山と山を繋ぐ架け橋を思わず食い入るように見つめた。きらめく雨粒と相まって、感嘆の息が漏れる程の絶景だった。「これを見せたかったんだ」隣の八左ヱ門が目を細めて言うまで、名前はずっと目が逸らせなかった。 「よくわかんねえけど、ここらにはどうも虹の種があるみたいだ。なあ、すごいだろ」 「……うん、綺麗。とても、綺麗」 「しょっちゅう出るって訳じゃないみたいだけど、今日みたいな天気雨の後によく出ててさ。前に通り雨に降られた時に見つけて知ったんだ」 「へえ」 「そしたらさ、名前が浮かんだんだ」 名前はゆっくり隣を向いた。八左ヱ門はやっぱり変わらず明るく笑っていたけれど、一向に目が合う気配がない。握った手が熱いのは、果たして片方だけのせいだろうか。心の蔵が常より速く脈打っているのは。 「一緒に見られたら楽しいんだろうなって。名前に見せたくなったんだ」 なんでだろうな。八左ヱ門の顔を、名前はもう見続けられなかった。眩しすぎて虹も笑顔も直視できない理由を、たったひとつだけ知っている。できれば、彼の質問の答えと同じであればいい。 君在るの如し |