ぽつりぽつりと、何かの軌跡のように山藤が白く浮かんでいる。忍術学園の近隣の山々には、様々な植物が自生している。保健委員会はそれらを採取して費用の削減をしているらしいけど、余所の委員会事情はいまいち分かっていないのが現状だ。

町で古本が売られている。そんな話を聞いて、図書委員会委員長であらせられる六年ろ組の中在家長次先輩は最高学年という事もありお忙しいから、次に年嵩である僕が代わりに町へ出た。その、帰り道。昼食をとってすぐに出掛けたからか日がまだ高い内に帰路へつく事が出来、のんびりと心地好い風を楽しみながら歩いていた。


(……もう、藤の季節か)


新緑から徐々に色を重ねるようにして濃くなっている葉の隙間から、ちらりちらりと藤が覗いている。真っ白なその様は、真夏の、青い空をくり抜く雲のようだと思う。

――藤はどこか、女性的だ。あの白藤なんて、女性のたおやかな腕が垂れ下がっているようにも見える。そんな想像をして、まだ明るい内で良かったと思わず苦笑した。夜の、あの冬場にも似たしんとした空気には慣れているけれど。


(それにしても、ひとりで町に出るなんて)


思えば久しぶりかもしれない。決して珍しい訳ではないけど、そういう時は実習や演習である事が多かったから。今回も私用ではないんだけど。風呂敷に包み背負っている本の存在を、意識を向ける事で確認する。

微かに草を踏む音がした。ここは学園の裏手にある山ではない上に険しい道ではないから、一般の人も通る可能性がある。そう考えつつも咄嗟に耳を潜めて相手との距離を測っていた。もしも山賊だったら――悪癖であるぐるぐるとした問答を頭の中で繰り広げるより先に、相手の姿が視界に入った。落ち着いた色の小袖に、そこからすらりと見える手。――女性だ。先程まで見ていた白藤が脳裏をよぎった。


「……あら、不破くん?」

「え、」


突如呼ばれた名前に、どきりと胸が鳴る。そんな僕の内心を見透かしたようにそっと目を細めて笑ったその人は、くノ一教室の生徒だった。……よく覚えがある。同学年の、名字名前さんだ。


「ごめんなさい、鉢屋くんだったかしら」

「いや、不破だよ。名字さんは、今から町へ?」


存外上擦った声が出た。それを誤魔化すように笑むと、名字さんは気にした様子もなく頷く。今から町へ向かっても、夕飯前には帰れるだろう。そうなんだ、と相槌を打つ。そこで会話は途絶えた。

忍たまと親しいくノ一教室の生徒といえば大抵学年がひとつ上で、それは入学したばかりの忍たま一年生にくノ一教室二年生が毎年必ず悪戯を仕掛けるからだった。恒例というか、授業の一環であるその悪戯のせいで嫌でも一学年上のくノ一ばかりと知り合う。学年が上がれば授業で同級生のくノ一と関わる機会もあるのだけど、それだけの関わりでは親しくなる事はなかった。僕と彼女も例外ではない。


「……それじゃあ、また学園でね」

「え、あ、名字さんっ」

「何か?」


だから彼女が発したその言葉は社交辞令で、学園に帰ったら接点なんて時折すれ違うくらいのものになるんだろう。そう考えたら、珍しく迷わずに名前を呼んでいた。呼んでから、迷った。

名字さんからすれば僕はただの同学年の忍たまでしかなくて、でも、僕からすればまるで違っていて。話したくて、迷惑かもしれなくて、我が儘を通したいけれど不快には思われたくなくて。酷く自分本意な考えだったけど、そうだと気付いても何でもないと彼女に言う事は出来なかった。僕からすれば、彼女は一生徒ではないから。

きっかけは、もう覚えていないけど。


「……今からだと帰りは暗くなるけど、大丈夫?」

「走れば何とかなるもの、大丈夫よ」


口元を押さえてくすりと笑うその姿に何だか恥ずかしくなって、胸の前で結んでいる風呂敷を握る。まだ桜が散ったばかり、夏とは到底言えない季節だというのに少しばかり汗ばむように感じた。……相手は同じ忍を目指す者だというのに、僕は何を言っているんだろう。涼しい木陰も肌を滑る風も、薄い膜を通して感じているようだった。

さわさわと風に吹かれ葉が擦れ合う音がする。囁くような、何かを期待するような音だった。


「……不破くんは、何か心配な事があるの?」


何とも言えない表情をしていたのだろうか、名字さんは不思議そうに問うた。ぽつりぽつりと、彼女の背後に浮かぶ白が見える。木々に覆われたこの道は暗くはなくとも明るいとも言えなかった。そう、だからだろうか。あんな比喩が思い付いたのは。


「白藤が、」

「藤? ……ああ本当、綺麗に咲いてるわね」

「そう、それが女性の腕のようだと思って。……日が暮れたら、殊更不気味だろうなあって」


名字さんの、たおやかな手が自身の口元に添えられる。その拍子に小袖の袖口が少し下がり、僕のものより白い腕が現れた。――白藤だ。

くすくすと名字さんは声を小さく零しながら笑う。背中で結われた彼女の髪が、肩の上で揺れていた。酷く空想的な事を言ったという自覚はある。だから、三年の誰かみたいね、と言われても素直に納得した。


「不破くんって、思っていたより面白いのね」


そう言われて、思わず苦笑した。変な奴だと思われてしまっただろうか。そんな印象でも嫌な気分ではないのは、今まで印象と呼べる程のものすら抱かれていなかったからか。

風が柔らかく頬を撫で、冷たい、と感じる。心地好かった筈の風にそんな感想を抱き、初めて頬が赤いのかもしれないと思った。枝がしなり、葉が擦れる。さわさわと音がした。


「でも大丈夫よ、女が掴むのなら殿方の腕でしょうから」


同意を求めるように、ねえ? と名字さんは言うけれど、それは僕には計り知れない事だ。曖昧に笑むようにして、返事を濁す。……だけど逆なら分かるかもしれない。僕が白藤を腕のようだと思ったのは、きっと、恐ろしいからではなくて。

もやもやとした、消化不良な気持ちに胸が占領されていく。ああ、藤が腕のようなんじゃない。その小袖に隠された腕が、藤の花のようだと思ったんだ。気恥ずかしくなって、片手で口元を覆う。無意識下とは、それこそ恐ろしい。


「…………そういうものかな」

「そういうものよ。だから大丈夫」


不破くんこそ掴まれないように気を付けて、と目を細めて彼女は笑う。からかうような、悪戯っぽい笑みだった。ふ、と僕も漸く肩の力を抜いて口元を緩める。気を付けるどころか、なんて。

名字さんから視線を外して、彼女の背後へと焦点を合わせる。ぽつりぽつり、浮かぶ藤。まるでそこだけを切り取るように、目立つ訳ではないのに確固とした存在でいる。ゆらゆらと、風が僕の髪を揺らす。やはり冷たくて、それが心地好かった。


「気を付けるよ、ありがとう」

「いいえ。……あなたとはまた話したいわ」


ふわり、綻ぶように名字さんは微笑う。もしもそれが社交辞令ではないなら――さわさわと胸が揺れる。僕も、とそれだけを漸く返すと、彼女はまた口元に弧を描いた。


「じゃあ私、もう行かなくちゃ」

「あ……呼び止めてごめんね」

「いえ、楽しかったわ。ありがとう」


するりと僕の横を通り過ぎていった名字さんを少しだけ目で追うように、肩越しに振り返る。だけどすぐに前を向いて、僕も再び歩き始める。浮かぶ白藤を辿るようにして、前へ前へと進んだ。きっともう、振り向いても名字さんの姿は見えないだろう。

白藤の、たおやかな様を眺める。決して目立つ訳ではなく、だけれど景色に埋もれる訳でもなく。ふと足を止めて、低いところに咲いていた藤に触れてみる。柔らかな花弁はすべらかで、さらりとした心地がした。


(ああもう、)


花が腕のようではない、腕が花のようなのだ。――その白い花に触れたいと思った。つまりはそういう事なのだろう。



白藤の腕


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