それは、会計作業のための二撤目の日の深夜だった。鬼の会計委員長潮江文次郎以外の委員たちも眼の下に隈を作っていた。神崎左門は口を開けたまま寝ており、一年生たちもうつらうつらしながら十キログラムもある算盤をはじいていた。
 その中で、すかーっと寝ている五年生がいた。時折、四年生の田村三木ヱ門に揺さぶられたり、委員長の潮江文次郎に体がずれるほど強く蹴られたりしているのだが、一向に起きる気配はなかった。
 薄明かりの中で雀の声が響く頃だった。
 気だるい雰囲気の漂う部屋に、はっ、と息を吸う音が響いた。
「潮江先輩、潮江先輩、今度長期の実習があるんですけど、大きな街道を通るんですけど、お土産何が良いですか?」
 すやすやと寝ていたからだろう。隈一つない顔はとても明るく、そしてその声は場違いなほどに明瞭だった。眼を開けたまま寝ていた神崎左門も起き、同じく舟を漕いでいた加藤団蔵と任暁左吉は呆然とした。
 そして、田村三木ヱ門は深い溜息をついた。
「バカタレが!」
 そして、潮江文次郎は長屋が吹き飛ばん限りの大声で、会計委員会五年目にして未だに徹夜もできず計算も合わない名字名前を怒鳴り散らした。



 潮江文次郎は卒業を控えたある日、五年生の担任を持っている木下鉄丸に突然呼び出された。告げられたのは突然の実習。
 それは当初から計画されていたものではなかった。実習というのはただの口実だった。文次郎は指定された城に忍び込み、地下まで潜りこんだ。
「しおえせんぱい?」
 一番奥の牢の前まで行くと、細い声と共に汚れた麻の布からひょっこりと青白い顔が出てきた。名字名前。いつも血色の好い顔で元気よく笑っているのが嘘のようだと文次郎は思った。
 二年生の時に入学してきた後輩だった。五年間算盤を弾いてきたのだが、未だに計算を合わせるのが苦手だ。オマケに一年生以上に睡眠の誘惑に弱い。そう、この間も会計作業の作業中に爆睡、目覚めたかと思ったらわけのわからないことを言い出す始末。怒鳴ったものの、その後の言葉が続かないほど呆れてしまったのは、文次郎にとって記憶に新しかった。
 手のかかる後輩だった。しかし、文次郎は名前を嫌いだと思ったことはなかった。名前の方もいつもきつく怒鳴りつける文次郎を嫌うようなそぶりは見せなかった。
 それどころか、文次郎には何が良いのか全く分からなかったが、彼の後を嬉しそうについてきた。委員会では酷い顔をしながらも、十キロ算盤を持って走り回っていた。一度も褒めたことなどなかったが、いつでも一生懸命だった。
 どれだけ厳しい叱咤にも耐えた。
「しっぱいしちゃいました」
 いつもと同じような笑顔を浮かべる。文次郎は何も言わずに名字名前を背負った。頭は頗る悪いが実技は優秀で、屈強な精神を持っている。そんなことは知っていた。
 予算会議と書いて合戦と読む。
「しおえせんぱい、たんぞうはきょうじっしゅうですよね。どうでしたか」
 城を出た後も、文次郎は名前を背負って歩き続けた。森の中は静かだった。
「そういえば、さきちとさもんみきょうがてすとでしたけど?」
 いつもよりも覇気のない声だが不自然に明るかった。
「黙れ、名字」
 文次郎は怒ってはいないことが伝わるようにできる限り、感情を抑えようとしたが、ただ単に低くなってしまっただけだった。しかし、文次郎はそれ以上何も言わなかった。名字名前も黙りこんだ。
 しかし、すぐに気持ち良さそうな寝息が響いた。
「悔しかったな」
 文次郎は独り言のように呟いた。背中の後輩はすやすやと寝ていたが、傷だらけの手は拳を握っていた。



「先輩のご活躍をお祈りいたします」
 佐吉は無理矢理作ったような明るい顔でそう言って、団蔵はただしょんぼりとしていた。それぞれがそれぞれらしくて、潮江文次郎は思わず口角が上がってしまうのを感じた。
「お前とは正反対の委員長になりそうだな。眠りの委員長かアホの委員長か」
 後輩については全く他人のことを言える身ではない立花仙蔵だが、文次郎は何も言わなかった。最初の一年こそは、手のかかる後輩を持ったことで散々笑われたのだが、その翌年には彼も後輩の面倒に苦労をした。
「人に仕事をさせるのも実力のうちだろうな」
 相も変わらず穴を掘り続ける後輩を見やりながら、仙蔵は呆れたように笑った。テスト前日で半泣きの名字を、部屋で二人がかりで勉強を教えたのは良い思い出だった。
 勿論、名前は一度も満足できるような点を取れたことなどなかったのだが。
「潮江先輩、潮江先輩、卒業おめでとうございます! 学園に遊びに来て下さいね! 絶対ですよ、遊びに来ないと探しに行きますからね!」
 突然の声は聞き慣れたものだった。慌ててそちらを向くと、名前が保健室の窓から身を乗り出して懸命に叫んでいた。その後ろで新野が笑っているのが見えた。
「おい、頑張ってるぞ」
 仙蔵の言葉を無視して、文次郎は何も言わずに背を向けた。喉まで出かかった叱咤を飲みこみながら。




 忍務に失敗したのだ。柔らかい布団の上でそんなことを思い出す。伊賀忍者に襲われて、あまりの実力差に愕然とした。そこまでは覚えていた。
「潮江先輩、何で学園に遊びに来て下さらなかったのですか」
 潮江文次郎の視界を支配したのは、懐かしい顔だった。反射的に言葉は出てきた。
「バカタレ、なんでこんなところにいる」
 怒鳴りつつも、ここはこの世ではない、と文次郎は思った。しかし、それにしては何の変哲もない天井が視界に入っていた。
「ここは伊賀ですよ。私の里です」
 因みにここは服部様のお家です、と名字名前は呑気な笑顔を浮かべて言った。
「私は伊賀忍者なんですよー」
 実技はそれなりによく、一年生の頃から十キロ算盤を抱えて走ることができていた。それが当たり前のようになっていたが、誰でもできることではない。しかし、幼い頃から体力作りが始まる伊賀の里の出身者といわれれば不自然なことではなかった。
 ただ、伊賀の忍者は非常に利己的だと言われている。幼い頃から厳しい修行を経ているがゆえに、厳酷な精神を持ち合せているのだ。
「でも良かったです。父とか母とか、孫兵とか、あとは物知りの服部様とか百地のおじさまとか藤林のお婆さまとか、潮江先輩見かけたら教えてください、ってお願いしていたんです」
 服部、百地、藤林は、里の外の者でも知っている三大上忍の家系である。アホだから自分で探せるとは思えなくて、と困ったように笑っているが、そういう問題ではないことは明白だ。
「だから、探し出しますよ。また遊びにきてくださいね。絶対ですよ」
 服部様がまた手合わせしたいって言っていた、ということや、藤林のお婆さまが良い体をしていると褒めていた、などということなど、呑気に話し続ける名字名前に、潮江文次郎は頭が痛くなった。名字名前のこの性格は、厳格な流派の忍者の里でも公認らしい。
 この性格のせいで忍術学園に出されたに違いないが。
「バカタレ、忍者というものは! お前は忍術学園で何を教わっていたんだっ」
 怒られた意味も分かっていないだろうに、慌てて背筋を伸ばして座りなおして、すみません、と謝る。しかし、何故怒られたのか教えてほしそうな顔を隠さない。
 ちゅん、と雀がないた。


アホの子よ、人を愛せよ、愛されよ


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