腐れ縁の男と女 「前髪切った? 似合う、可愛いよ」 そんな言葉が聞こえ、くのたま五年生の名前は細い眉を寄せた。眉間に皺ができる。あからさまに不機嫌な顔を作ると、緩慢に振り返った。 振り返った先では濃紺の忍装束を着た男が後輩の女の子に笑いかけている。当の本人は挨拶程度の軽い言葉と笑顔なのかもしれないが、名前にとっては聞き捨てられない台詞であった。 ひとまず、手に持っていた竹箒―――飼育小屋のゴミを掃き出すためのもの―――を持ち直す。柄の部分を槍の先端に見立てて構えた。腹に力を込めて、声を張り上げる。 「竹谷! 真っ昼間から堂々と浮気とは良い度胸ではありませんか!」 そう叫ぶと、躊躇なく、竹箒の柄で男の尻穴を突く。長閑な学園の空に男の断末魔が木霊した。 * * * * * 「名前、いきなり何するんだよ・・・。尻が痛いじゃないか」 「殿方は突っ込まれることなんて中々ないのですから、貴重な体験でしょう?」 名前は何の悪びれもなく尻をさする男―――五年ろ組の竹谷八左ヱ門へ向けて言った。涼しい顔をして竹箒で飼育小屋の中を掃く。ちらりと小屋の外を見れば、八左ヱ門が恨みがましくこちらを見ていた。実に良い気味である。 名前は高慢に鼻を鳴らして、小首を傾げた。 「不満そうな顔ですこと。己の何が悪いのかまるで分かっていないのね」 「少なくとも、お前に尻穴を突かれるような悪いことはしてねぇーよ」 八左ヱ門が顔しかめて言う。 それに名前は呆れたように溜息をついた。 ―――この世には腐れ縁という言葉がある。離れようとしても離れられない関係のことをいうが、まさしく名前八左ヱ門はこの関係に当てはまっていた。 互いに一年生の頃から同じ生物委員会に所属しており、の頃から五年生になるまで続けてきたのであった。 ところが、そのどうしようもない腐れ縁の関係を少しだけ変えるような出来事が起こったのである。 ―――八左ヱ門に彼女ができたのだ。相手は、くのたま五年生で名前の大切な親友である。 好きだったわけではない。どうしようもない腐れ縁の男で、よく見積もってもただの幼馴染みだ。それ以上でも以下でもない。 周りの友達から“実は好きだったのではないか”と茶化されることがあったが、それだけはないと、名前は胸を張って言えた。決して、好きなどではない。 だが、胸の真ん中がぽっかりと空くような寂しさがあるのもまた事実ではあった。ほんの痛みを伴った胸の空洞は何処までも虚ろで寂しさ以外の感情は湧いてこない。 大好きな親友に彼氏ができたことが寂しいのか。腐れ縁の男に彼女ができたことが寂しいのか。あるいは、その両方か。 名前は竹箒で小屋の中を掃きながら、ゆっくりと目を閉じた。まるで子供のようだと小さく自嘲する。 ―――二人に置いていかれているようで寂しいなんて、口が裂けても言えないわ。 名前はもう一度大袈裟に溜息をついた。ついで、八左ヱ門の方を見る。 視線の先では八左ヱ門が訝しむように眉を寄せ、臨戦態勢をとっていた。 ―――何が気に食わないのか分からないが、かかってくるなら、いつでもかかってこい。 口には出していないが、表情だけでそう語っている。さり気に先程名前に突かれた尻穴を手で守っているあたり、次の攻撃に対して警戒を強めているようだ。 ・・・ただ単にまだ尻が痛いだけなのかもしれないが。 名前は顔をしかめると、小馬鹿にするように言った。 「何、無様な格好をしてるのですか。いい加減、尻から手を放しなさい」 「誰のせいだと思ってるんだよ!?」 「真っ昼間から浮気しかけている貴方のせいですよ。浮気なんてして私の大事な親友泣かせたら、今度は尻穴突くどころの騒ぎじゃありませんからね」 「浮気なんかしてないって!」 八左ヱ門が力強く否定する。 それに名前は大仰に呆れてみせた。どうにもこの腐れ縁の男は男女関係に疎すぎる。 八左ヱ門にとってはただの挨拶にすぎないのかもしれないが、彼女がいる男が他の女の子に向けて可愛いなどと言うのは控えるべきだ。余計な誤解を招いたら、どうするつもりなのだろうか。 「お馬鹿八左ヱ門。彼女がいる男のくせに他の女の子にも手を出そうとするからですよ」 棘のある言葉を吐けば、八左ヱ門があからさまに不機嫌そうな顔をした。 「何だよ、それ! 名前の考えすぎじゃないか!? 頭が固いんだよ、お前は!」 「固くありません! 貴方の頭が乾燥した糸瓜のようにスカスカなだけです!」 「どうだか。ガチガチ頭だから彼氏ができないんだろ?」 「言いましたね! お馬鹿八左ヱ門! 調子に乗ると、そのボサボサの髪、毟り取りますよ!」 「やれるものならやってみやがれ!」 八左ヱ門の挑発に名前は掃除をしていた飼育小屋から走り出す。そのまま、持っていた箒を振り上げ、八左ヱ門へ飛びかかった。 「痛い! 箒で頭を叩くな!」 「そっちこそ足踏んできているじゃないですか!? 痛い! 足の爪が折れる!」 名前は足への攻撃を避けながら、箒で八左ヱ門の頭を叩く。踏まれた足があまりにも痛くて、名前はやけになって力強く箒を振り回した。 最早、八左ヱ門の男女関係の危機感のなさなど、どうでも良い。だが、このまま、この男の好きにやられるわけにはいかない。気が済むまで、攻撃あるのみだ。 「あーぁ、また喧嘩始まった・・・」 「本当、先輩達、懲りないよね」 「伊賀崎先輩、竹谷先輩と名前先輩が喧嘩し始めましたー!」 結局、見かねた後輩達が止めに入るまで名前は八左ヱ門と喧嘩を続けたのだった。 |