ユークリッドとパイ


クラスでゼミでこの間は教務課で、私が名乗ると大抵の人がああ、と得心する。どうやら知らない内に知名度が上がっているらしい。私としてはそんなことはどうでもいいのだが、そこには『変人として』と括弧書きがつくようだ。当事者としては至極真面目に日々勉学と研究に勤しんでいるだけなのに噂とは恐ろしいもので一度一人歩きし始めると誰にも止められない。この山の中に隔離されたようなマイナスイオンを無料で浴びられる環境に若者がひしめき合っているのだからそれなりの娯楽、というものは必要なのかもしれない。

そんなことを考えながらゆっくりと山道を進む。大学をぐるりと取り囲むようにしてあるこの一帯の山林には熊が出るらしい。今のところ自宅への近道なので毎日この道を通っているが出会いはない。大抵、パンか何かを齧りながら歩いているがそれに釣られることもないようだ。白衣のポケットに入れっぱなしで大分べとつくメロンパンを取り出して一口齧る。糖分とカロリーが同時に摂取出来る素晴らしい食べ物。咀嚼を開始した途端、前方の茂みから何かが飛び出して来た。私もすでに脳が送り出した『歩く』という電気信号に待ったをかける事は出来ない。正に、出会い頭に私とそれは衝突した。

「う、わあ!」

生憎、口の中にパンを頬張っているので私の悲鳴ではない。視線を向けると草木に擬態できそうな萌黄色の着物を纏った少年が綺麗に受け身をとった体勢でこちらを見上げていた。大きなつり目が揺れる。これは敵意、それとも戸惑いか。静寂が私たちを包む、はずだったがそれは派手な腹の虫の音に見事にかき消された。甘ったるい固まりを流し込んで、差し出す。

「食べる?」

少年が私の顔と食べかけのパンの上で視線を往復させてからゆっくりと手を伸ばす。緩慢な動作はその時くらいなものであっという間にパンは消えてなくなった。

「君、名前は?」
「…富松作兵衛」
「私は名字名前」

この日、私は熊ではなくお腹を空かせた迷子の少年と出会った。




「…っさん!名前さん!さっさと起きねえとまた遅刻しますよ!てか起きろ!」

聞き慣れた声にゆっくりと目を開けると本と書類の山が崩れて来た。レジュメの原稿には大きなよだれの海が広がっている。まあ、後でコピーすればいい。それにしても懐かしい夢を見たものだ。あれからぐるりと季節は巡って作兵衛は私の部屋に居着いてしまっていた。何処かここじゃない場所から来て行く宛もないらしく、暫く保護するつもりが丸一年とは。何も語らない作兵衛と何も聞かない私たちは思いの外うまくやっている。没頭すると寝食を忘れがちな私にあれこれ世話を焼いてくれる作兵衛の存在は正直有り難い。お陰で出席日数には余裕が出来、体調もすこぶる良い。

「おはよう」
「もう14時過ぎてますけどね、何処がお早うなんだか」

じろり、とこちらを睨む。ふわり、と揺れた長い髪から甘い香りが漂った。

「なんか、いい匂いがする」
「あんた、本当にいい加減にしてくださいよ。顔洗って歯ぁ磨いて食い気はその次にして欲しいんですが。曲がりなりにも女でしょうに、信じられねえ」

心底嫌そうに眉間に皺を寄せて言う様は実年齢よりも大人びて見える。まったく子供らしくない。一体どういう育ち方をしたらこうなるのだろうか。まあそれは私の知る所ではないのだけれど。少し湿っぽい口元を拭って洗面所に立つ。適当に身なりを整えて居間に戻るとテーブルの上に綺麗にナイフが入れられたパイが置かれていた。

「やった!いただきまーす」
「あ、こら!ちょっと待て…」

一切れ掴んで作兵衛の制止から逃れるようにくるりと体を翻す。サクリ、と小気味好い音をたててパイ生地が割れその中から爽やかなレモンクリームが溢れ口中に広がる。酸味と甘みがじわじわと食欲を刺激しサクサクと食が進む。

「おいひい」
「食うか喋るかどっちかにしてくださいよ。で、あんたがふらふら食べこぼすそれを片付けるのは誰だと思ってんですかねえ!」
「美味しいよ」
「だから、歩き回りながら食べる癖、いい加減にしてくださいって」
「作兵衛の作るレモンパイはとても美味しい」
「…そりゃ、どうも」

ふいと目を逸らす横顔に笑いかけてから綺麗に漂白された白衣を羽織る。しわしわの原稿をポケットにねじこんで踵のつぶれたスニーカーをひっかけた。

「じゃ、行ってくるね」
「あーあ、また靴ぼろぼろにして。あんたって本当に駄目ですね」
「なに、今日は随分とお説教モードだね」
「…ちゃんとすりゃあもう少し見られるんじゃねえんですか。化粧とか、服とか、髪とか」

そう、私の目を覗き込む。

「女装の域ですけど」
「あはは、確かに」

笑うと、少しだけ目を細めた作兵衛が私の頬を親指でぐいっと拭った。

「くりいむ、付いてましたんで」
「ありがと。あ、パイちゃんと残しといてね」

くしゃくしゃと癖のある前髪に手を伸ばしてから部屋を飛び出す。強い日差しに手をかざしてぺろりと唇を舐めるとかすかにレモンの味がした。




数理科学科の研究室は裏門に面している。窓を開け放しておけば蝶や蝉や蜂などが飛び込んでくる、千客万来だ。ひらひらと舞うアカタテハを横目に数式を書き連ねる作業に没頭する。蝉の声と黒板をひっかくチョークの音だけが響く世界。私はこの世界が酷く好きで好き過ぎて他人には奇異に見られるんだろう。短くなったチョークを捨て指先を白衣に擦り付けてから新しいチョークを取り出す。原論についての数式だ。とても利己的な解釈だとは思うが仕方ない。一瞬、蝉の鳴き声が途絶えた気がして振り返る。無音より騒々しい方が集中力は増す。そこには今朝見た夢のように森に溶けてしまいそうな萌黄色が立っていた。

「何を書いてるんですか」
「エウクレイデスという数学者が遺した原論についての私的解釈。世界のすべては数学で説明が出来るっていうけれど本当なのかなあと思って。この人が証明したように私もそれを証明したいの」
「良くわかんねえです」
「そうだね」
「あんたは、何も聞きませんね」
「うん。聞いて欲しいの?」
「普通聞くでしょう。俺の格好とか生い立ちとか何処から来たとか」
「何処へ帰るとか?」

作兵衛の体がびくりと震えた。

「その服、少し窮屈そうだね。帰ったら新調しなくちゃ。背も随分伸びたし」
「あんたはやっぱり変人だ」

くしゃり、顔を歪めて吐き捨てるように言う。

「嬉しくないの?だって帰れるんでしょ?」
「俺は…」

瞳が揺れた。今ならわかる、これは逡巡。

「レモンパイは?」
「…冷蔵庫に」
「私は20時までにこの数式を完成させる。そしたら近道をして家に帰る。レモンパイを食べてシャワーを浴びてテレビを見て本を読んで目覚ましをかけてからソファで眠る。目が覚めたら顔を洗って歯を磨いてまたここへ戻ってくる。何も変わらないよ、作兵衛。ありがとう」

西日がゆっくりと作兵衛の影を伸ばす。こちらを見据える真っ直ぐな瞳。幾分か低くなった声。1年前と同じ様でいて違う。一歩、二歩、三歩。距離が縮んで私と作兵衛の影が溶け合った。

「俺は、だらしなくて無頓着で呆れるくらいにしょうがない変人でも。あんたが好きだったよ」

湿った唇が私のかさつくそれに押し付けられる。長い髪が頬を掠めた。日向の匂い、作兵衛の匂いを胸に吸い込む。

「これは餞別代わりってことにしといてくれねえですか」

ゆっくりと体を離しながら言う。

「やっぱり生意気だよ、作兵衛は」

その言葉に猫みたいに目を細めて笑う作兵衛の肩をとん、と押した。

『行かないで』
『帰らないで』
『傍にいて』
『もっとずっと一緒にいて』

『ありがとう』
『体には気をつけて』
『無理しすぎるからたまには誰かに甘えて』
『どうか幸せに』

『好きだよ』
『元気でね』
『大好きだよ』
『ずっと忘れない』

『さようなら』

どれも全部本当で全部嘘の言葉が胸につかえて霧散する。それでも、

「またね」

小さくこぼれた言葉に萌葱色がゆらりと揺れて視界から消えた。熱を帯びたままの唇をそっとなぞる。世界が数学で証明出来るなら私のこの気持ちにも説明がつくのだろうか。頬を伝う生温い感触にも説明がつくのだろうか。目の前が真っ暗になるようなこの寂しさにも。

「作兵衛」

掠れた声が迫り繰る夕闇に消える。

ふと落とした視線の先にチョークが転がる。洗ってもピンクの色が落ちないとこぼしていた。

それを拾って顔を上げる。黒板にうっすらと残る手形。書きかけの数式。

私は20時までにこの数式を完成させる。近道を通って家に帰る。いつもと同じ今迄と同じ。それから冷蔵庫を開けて君が作ったパイを食べよう。紅茶を淹れてきちんと椅子に座ってひとかけらもこぼすことなく平らげよう。そしてちゃんと寝て起きていつも通りの朝がくるなら、君にもくるならもう靴の踵をつぶさないでみようか。きちんと化粧をしてみようか。だから、またね。私のユークリッド。


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