木漏れ日が落ちる。
竹林を背に、八左ヱ門は大きな石に腰かけていた。その隣で娘は小さな手で器用に笹の舟を編む。
八左ヱ門より二つ年下の女の子。
八左ヱ門が七つのときに、迷子になっていたのを家まで届けた縁で、付き合いはもう五年になる。
上品な紺染めの単衣からのびる白くふっくらした指先が、出来上がった笹舟をちょんとつつく。
満足そうに眺めてから何も言わずに八左ヱ門へ満面の笑みを向けた。
額にこぼれた髪が汗で張り付いている。
八左ヱ門がそっとよけてやると目を細め、ふふ、と肩をすくめた。
「やっぱりうめえな、名前ちゃんは。これで隅田川をすーっと下れそうだ」
笹舟を手にとって八左ヱ門は目の高さにすうーっと泳がせる。
「じゃあハチにいちゃんが船頭さんになってくれる?」
ぱっと顔をほころばせて娘、名前は自分より少しばかり大きい八左ヱ門の腕にしがみついた。
木綿の硬い生地。草染の甚兵衛に添えられたふくふくとした丸い手が眩しかった。
「俺は父ちゃんみたいな火消しになりたいからなぁ。でも、名前ちゃんにだけなら船頭さんになってもいいかもな」
「ほんとう!?」
名前が足をばたつかせると、赤い鼻緒の塗り下駄がぽんと飛んでいった。
あっ、と声をあげる名前の頭を撫でて八左ヱ門は石から飛び降りる。
突風が八左ヱ門のざんざらした前髪を吹き上げた。
竹の葉が風にこすれ合って音を立てる。
八左ヱ門は、名前の後ろで羽衣のようにそよぐ笹の葉を瞼に描いて、ふふ、と笑う。



「おいちゃんありがとう!」
渡し船の船頭に八左ヱ門は頭を下げた。草履を履いた八左ヱ門の足に花びらが落ちる。
「呉服屋のちい姉さんも一緒ならな、断る訳にはいかめぇよ。そのかわり、これっきりだからな」
「わかってらい! 名前、永代橋までずーっと桜見物だぜ」
体を捻って八左ヱ門は自分の背後にちょんと立つ名前を見る。
「ええ、うれしい。船頭さん、よろしくお願いします。八左ヱ門もありがとう」
薄紅と萌黄の袷を身にまとう名前の手を取った。近ごろごつごつと骨張ってきた八左ヱ門のそれと違い、すらりと細い指先を包むように握って舟に導く。
二人が乗り込むと舟が揺れた。
名前は小さく声をあげて八左ヱ門の袖を掴む。
「そんなに簡単に舟はひっくり返りゃしやせんよ、ちい姉さん。さ、でますよ。あーらよっと」
最後に乗り込んできた船頭が笑いながら綱を解き、棒で岸を押す。
すべるように舟が動き出した。
水面には薄紅の花びらが浮いており、舟の舳先が滑らかに水をきって進んでゆく。
「反物を裁断しているみたいだわ」
「ははは、さすが大店名字屋の末娘さんだ。例えが違う」
船頭が快活に笑う。
八左ヱ門は笑みを引っ込めて自分の足元を見た。
自分で編んだ稲ワラの草履。
裸足の足は土に汚れている。
傍の白い足袋が眩しくて思わず目をつむった。
八左ヱ門の父は火消しである。火消しの仕事だけでは生活できないため、普段は大工として家を建て、火事が起きれば火消しになる。いずれ八左ヱ門もそれを継いで火消しになるのだ。
大きな父親の背中を思い出し、八左ヱ門は小さく頭を振った。
「八左ヱ門」
腕を掴まれる。目を開けて、八左ヱ門を見上げる名前を見た。
「ねえ、八左ヱ門、ありがとうね」
「……おお」
不意に名前が八左ヱ門の頭に手を伸ばした。体をかたくするとすぐに離れる。
戻る途中にちらりと見えた腕は桜のように淡くてどぎまぎする。
「八左ヱ門、あなたの髪、桜でいっぱいよ」
ほんのり色づいた花びらが名前にそっとつままれている。
そう微笑む名前の黒々と結われた髪にも淡く花が咲いている。
八左ヱ門には見えないが、己の頭も同じなのだろうと思われた。
「ね、一緒。八左ヱ門も、船頭さんも、わたしも、同じ隅田川を下っていたら桜だらけだわ」
じっと黙って八左ヱ門は桜色の娘を見つめた。
しばらく互いに見つめあっていると、ふと名前が視線を遠くにやる。
「こりゃあ豪勢な」
名前の視線の先を追った船頭が感嘆の声をあげた。
華やかな花見の舟が向かい側を上ってくるところだった。
立派ななりの若い男たち。きらびやかな女たちが酌をしている。
少しの間それを見つめ、名前は向き直ってにっこりする。
「わたしは、船頭さんが漕いでくだすって八左ヱ門と一緒に花を見るこの舟がすきだわ」
「そんなこと言われちまったら、うれしくっていけねえですよ。ま、あちらは花より団子のようですし、あっしらはとびっきりの花を楽しみやしょう」
なあ、ハチ、と船頭が目配せする。なんとなくその意味がわかってしまって八左ヱ門は頬が熱くなる。
「ああ、きれいだな。花が」
船頭が力を入れて漕ぐと櫂かぴしゃりと水を跳ねて陽に光る。
八左ヱ門は来年で元服する。同じく名前も成人だ。
大工の仕事や名前の手習いの合間をやっと取り付けた約束だった。
「ね、ありがとう、八左ヱ門、連れてきてくれて」
「うん」
名前の、薄紅色の着物の袖に桜が積もる。
きれいだなあ、とつぶやいて八左ヱ門はようやく笑みをこぼした。



話があるの。八左ヱ門は仕事中、名前に呼び止められた。
ここ一年で二人の背丈の差はぐっと広がった。どんどん名前が小さくなるように思えていたが、今日は事のほか小さく見える。
体をぎゅっと縮めて、いつもまっすぐに八左ヱ門を映す目は伏せられていた。
これは何か大変なことなのだろう、そう思って八左ヱ門は親方でもある父に伺いをたてる。
父親は顔もあげずに手をひらひらさせた。
行って来い、ということだ。
入口から顔をのぞかせる名前に駆け寄った。
「名前、どうした」
「川べりの、竹林に。いいかしら」
「あー……」
八左ヱ門は眉を下げて口ごもった。
やましい考えなど毛頭ないが、成人した「男女」が二人で竹林に、となるといらぬ勘ぐりをする者もいるだろう。
八左ヱ門が言われるだけならば問題ないのだが、名前は、大店の娘さんだ。
変な噂が彼女を傷つけるのではという考えがよぎった。
「裏口じゃ、だめか?」
決まりの悪そうな返答に名前はうつむいた。
どうしたものかと八左ヱ門は頭をかく。
見兼ねた父親が顔を出した。
「名前さん、ハチも一応仕事中なんでさぁ。抜けるのは許されても、そう長くは出てらんねぇんです。日も短くなりましたし。汚ねぇとこですが我慢してもらっちゃぁいけませんかね。なに、だれも盗み聞きしたりする奴はいませんで」
八左ヱ門と似た、人好きのする笑みに、名前は小さく頷いた。

「話って、なんだ。名前、どこか悪いのか? とにかく座れよ」
裏口に腰掛けて八左ヱ門は名前を見る。
名前は八左ヱ門の前に立ってうつむいたままである。
「名前……?」
いよいよおかしいと腰を浮かせた時だ。
声もなく名前の腕が伸ばされた。そのまま八左ヱ門の首にしがみつく。
勢いで八左ヱ門は尻もちをついた。
耳元で小さな嗚咽が聞こえる。
八左ヱ門に回された細い腕、触れる小さな体全体が震えていた。
「名前」
八左ヱ門の腕が彷徨って、ゆっくり名前の背中に添えられる。
「は、ざえ、も……」
「ん? どうした?」
肩口にじんわり濡れた熱を感じながら、八左ヱ門は赤子をあやすように背中を撫でる。
「と、さま、が……」
「うん」
名前の息が落ち着くのを待ちながら、八左ヱ門は彼女の父親を思い浮かべる。
老舗呉服屋の主人だけあって貫禄のある男である。
兄一人に姉二人。末娘の名前をたいそうかわいがっていたのだが、喧嘩とは珍しい。
そうぼんやりと考えていたが、次いだ名前の一言に八左ヱ門は眼を丸くした。

「嫁ぎ先が、決まったって」

あやす手が止まる。
八左ヱ門は口を開いたが、直ぐに真横に引き結んだ。
「八左ヱ門、あたしの船頭さんになって……」
「名前……」
掠れた声でひとつ呼んで、八左ヱ門は名前を抱える手に力を込めた。
やわらかい布に包まれた体は八左ヱ門と違ってまるい。
再びすすり泣きが聞こえ、いつしか嗚咽とくぐもった泣き声になる。
きつく抱いたまま、八左ヱ門はぎゅっと目をつむる。
真っ暗なまぶたの裏で笹船がくるくる回りながら流れていった。

自分の持つ一番良い着物を着て、八左ヱ門は男の前で頭を下げていた。
「名前さんの縁談の件、考え直していただけないでしょうか」
迷子になった名前をたまたま見つけて家まで送った縁で、これまで何かと良くしてくれた呉服屋名字の大旦那、名前の父親である。
「八左ヱ門。おまえさんは、何を言っているのかわかるかな?」
身分で八左ヱ門を蔑まなかった男だったが、今回ばかりは目通りすることすら難しかった。
縁談は感情で決めるものではない。恋心からの結婚が良く思われないのも、家柄に差があるのも承知の上である。
しかし求婚のために、あからさまに店や家へゆくには世間の目があった。八左ヱ門だけが噂されるならいい。
いつも思うのは、それで名前や名前の家の評判が傷つけられることはあってはならぬ、ということだ。
「重々承知しております」
「娘の縁談をやめろというのは、名前に行き遅れろということか」
わかっていて、この返しである。
「いえ、名前さんを……」
八左ヱ門の、畳に擦り付けた額に熱が集まる。
目に見えない何がが頭の上にずしりと重しをしているようだった。
それを跳ね除けるようにして八左ヱ門は顔をあげる。名字の黒々とした鋭い眼を睨むようにして見据えた。
「名前さんと、一緒になりたいのです」
「大事な末娘。火消しの嫁になどできん」
間髪入れず断られた。
八左ヱ門の背中を、ゆっくりと汗が降りていく。
「ならば……」
口が渇いていた。

「この八左ヱ門を、名字家の婿にしてください」

ほう、と名字は声を上げた。
「おまえに呉服屋ができるかね」
「やります」
「若旦那であるわしの息子が次の大旦那になるのだぞ。名前は家の娘として扱われるが、おまえさんは一から奉公人として働く」
「かまいません」
名字の眼が三日月に歪められた。
「しかしな、わしはまだはっきり聞いておらぬのだ。受け答えはしたが、おまえの口で『火消しをやめ、呉服屋の下っ端として働く』とな」
「……わたしは」
八左ヱ門の脳裏に大鋸を引く父、火消装束を羽織って火事に駆けつける背中が浮かぶ。大工も、火消しも、見習いになってからは一層大きく誇らしく思う。
「わたしは、火消しを」
(やめて、一緒になって、それで、名前は、しあわせになれるだろうか。)
ほんの一瞬、八左ヱ門は躊躇した。
詰まったそのときに、後ろで襖が開いた。
「ごめんなさい、八左ヱ門。もういいの」
聞き慣れた声と共にそっと背中にてのひらが添えられる。正面の名字は腕を組み、眼を閉じていた。
八左ヱ門は振り向けぬまま歯を食いしばる。胸のあたりがずしりと重い。
「あなたにこんなことを言わせてしまってごめんなさい。どうか……どうか立派な火消しに……」
握りしめた拳に、そっと白い手が重なった。
「ごめんなさい。すきよ、八左ヱ門」
濡れた声が耳元でして、背中にぬくもりを感じる。
それはすぐに離れ、振り向いたときには襖の間から茜色の着物が見えて閉まった。
衣擦れの音がして肩に手を置かれる。名字が八左ヱ門を見ていた。
「悪いが、娘はやれん。人にはゆくべき道がある。八左ヱ門、名前とおまえさんは、ここから先、分かれ道だ」

それからどうやって帰ったのか、気がつくと八左ヱ門は仕事場の近くを歩いていた。曼珠沙華の咲いた川の向こうに陽が落ちかけている。空が燃えていた。
家に帰るのだろう、男女の童が、ふたつ黒い影になってわらべうたを歌っていた。



空っ風の吹く、晴れ続きの日だった。
八左ヱ門が仕事の手を休め握り飯を食べていた時である。火の見やぐらの半鐘が鳴り響いた。
「はっつぁん!」
火消し仲間が頬に米粒をつけたまま飛んできた。
「わかってらぁ! くそ、昼餉の煮炊きか?」
八左ヱ門は火消し装束に腕を通しながら表へ出る。
「どっからだ」
「こう風が強いと鐘の音が流れちまって方角がわからねえ……」
火消し組頭の元へ駆けつける。続々組の者が集まってきた。
「火元は八丁堀だ。風上から百組の応援にいくぞ!」
「応!」
火消し組頭の指示に八左ヱ門らは声をそろえる。
早口に言葉が飛び交い、組頭を先頭に先を急ぐ。
組の目印である「まとい」に書かれた「南」の字が揺れる。
風は丑寅。
庶民の火消しを組織する発端として語り継がれる大火が八左ヱ門の脳裏をよぎった。八左ヱ門の生まれる前のことであるが、そのときも丑寅だったという。
昼間の市をかけ足に通る。火事と喧嘩は江戸の華とは言ったもので、火消しに向かうものたちを見に住民たちが見物している。
いつものことなのだ。
火消し見習いをはじめて何年も経った。その間火事は起これどその都度なんとか被害は最小限に抑えられている。
それがどうしたことだろう。妙な胸騒ぎをに八左ヱ門は大きく息をする。
永代橋を渡ると、身を切るような冷たい横風が火消し装束を吹きあげる。
一瞬桜が吹かれた気がして八左ヱ門は眼を見開いた。
見上げると今朝はすっと晴れていた空を雪雲が覆っている。そこからちらりちらりと雪が舞い始めていた。

火事現場に到着すると、火が燃え移らないよう周りの家の取り壊しが進められていた。組頭が百組の頭を大声で呼ぶ。
「南組だ。加勢に来た!」
「ありがてえ! 千組の向こうを決して」
真っすぐな互いの視線が絡む。
静かに名前の頭や着物につもるそれは、桜ではない。
八左ヱ門は花を乗せる船頭にはなれなかった。
「本当に、あなたがご無事でよかった。火消しとして、これ以上に嬉しいことはありません」
北風がびゅうと吹く。
八左ヱ門はくしゃりと顔を歪めて笑った。



花舟


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