竹谷八左ヱ門は、名前が数年前通った学園で関わった者達の中の一人だ。太陽の日差しの下、日焼けした笑顔が印象的な男だった。

 そんな竹谷が、ある日いきなり名前を訪ねてやって来たのである。

「よう」
「…っ!」

 とある晩春の日。雲が薄くたなびいた、夕暮れの縁側だった。背を丸めて一人 草鞋を編んでいた名前は、自分のすぐ隣に誰かが座っている事に気付いた。
 驚きのあまり、悲鳴と同時に持っていた草鞋がポーンと弧を描いて飛んでいく。名前の反応を目の当たりにした不審な輩は、太い眉を申し訳なさそうに下げた。
「悪い、驚かせちまったか」
「…竹谷、先輩?」
 警戒するよりも距離を取るよりも先に、名前は確認をしていた。夜の闇にも似たような濃い藍の装束を纏ったその人物の声が、思い当たる人のものに似ていたからだ。
 問うてみれば、頭を振り払いながら頭巾を取り去ったその男は、ふっと目を細めて頷いた。
「おう、久し振りだな。名字」
「え…、ほ、本当に竹谷八左ヱ門先輩ですか」
「参ったな、顔忘れられたか?」
 目をこすったり瞬きを繰り返したりしながら、彼女は目の前の男を凝視する。名前がこの男の顔を見るのは実に五年振りだった。五年も逢わなかった人を、瞬時にその人と認識するのは難しい。
 しかし困ったようにつむじのあたりを掻く仕草や、キョトンと自分を見つめるその眼差しは、やはり竹谷八左ヱ門のものに間違いないと名前は思う。
 名前はそもそも、人の顔と名前を覚えるのは得意ではない。だが、名前が竹谷の名前を忘れる筈はなかった。かつて思いを寄せていた、竹谷八左ヱ門の名を。

 竹谷はおもむろに立ち上がると、飛んでいった草鞋の方向へゆっくり歩き始める。彼はボロボロの布を頭からすっぽりと羽織っていた。歩く度にひらひらとはためき、中の忍装束が見え隠れしている。
 名前は反射的に顔を上げて、目で後ろ姿を追った。あの頃より背が高くなったのだろうか。身体つきも、ずっと逞しくなったように見える。けれども色素の薄い髪の毛だけは相変わらず荒れ放題だ。その一本一本が夕の色に透けているように見え、名前は目を細める。

 ああ、懐かしいなと頭の中で呟く。名前の心は、二度と味わう事のない学園時代へと戻っていた。



 一つ上の学年で、竹谷八左ヱ門という忍たまがいると知ったのは、名前が学園に入って三年目の事だった。何かのはずみで、図書委員会に属した事が切欠だ。

――雷蔵ー!



 穏やかな昼下がり。図書委員の名前は人気の無い図書室で風に当たっていた。コクコクと眠りかけていると、ドタバタという足音が迫ってくる事に気付く。名前が慌てて振り向くのと、引き戸が開くのは同時だったかもしれない。
 名前を叫びながら、ひょこっと顔だけを覗かせたのは、まだ表情にあどけなさの残る忍たま。装束の色から、自分より上の学年だということが分かる。後に必死で調べたところによると、彼は竹谷八左ヱ門という名であるらしい。
 忍たまの少年は、キョロキョロと視線をさまよわせる。やがて振り向いたまま固まっている名前に気付くと、純粋な瞳でじっと見つめて、こう問うた。

――なあ、雷蔵がどこ行ったか知ってるか?

 雷蔵、と呼ばれるのが忍たまの先輩である不破雷蔵だという事を名前は知っていた。図書室には来ていません。彼女はそう教えたかったのだが、生憎身体は硬直してしまい、声すら出ない。幼い頃、同年代の男子にクモを持って追いかけ回された事が切欠で、名前は異性に対してかなりの臆病者になってしまったのだ。
 ただただ、沈黙の時間だけが過ぎる。背中をツーと流れる嫌な汗。なかなか答えないものだから、この人は怒るんじゃなかろうかと名前は危ぶむ。ならば尚更早く伝えねば。しかし、そんな思いとは裏腹に声は出てこないものだから、焦りだけが先行する。

――…くのたまだもんな、わかんねえよな。

 あまりに混乱した名前が泣きそうになっていると、不意に優しげな呟きが聴こえてくる。すぐさま顔を上げると、目が合った少年はニッと白い歯を見せた。

――邪魔してゴメンな!

 そのまま閉まる戸。騒々しい足音は遠ざかっていき、後には何事もなかったかのような静寂が残される事になる。

 これ以後の学園生活で、二人の関係性は変わらなかった。何か特別な出来事があるわけでもなく、二人は時たま顔を合わせるだけの間柄だった。竹谷にとって、自分は沢山いる後輩のうちの一人だったろうと名前は思う。
 けれど、あの日あの時あの出会いから、名前にとって竹谷という男は特別な存在になった。どうしてかは分からない。気付けば後ろ姿を目で追っていて、出会った回数を数えていて、あの時見たような笑顔を見ると胸が高鳴ったりして。
 ただ、当時の竹谷にはよく噂になっていた同学年のくのたまがいた。時たま二人が楽しそうにお喋りをしている場面を、名前が垣間見る事もあった。当時彼女は、よくこう思ったものだった。

 要するにこれはよく言う『恋』というものであり、『初恋』が実らないのは、本当だったのだと。



「…名字? どうした?」

「あっ…。ありがとうございます」

 ぼんやりと物思いに耽っていた名前は、自分の目の前に竹谷が立っている事にようやく気付いた。慌てて姿勢を正すと、竹谷はホレ、とふっ飛ばした筈の草鞋を手渡す。
 竹谷はそのまま、名前から少し離れた縁側の端にゆっくり腰を下ろした。どこからか、乾いたカラスの声が響いてくる。


 どちらも、何も喋らないまま時が過ぎた。名前の方で聴きたい事は幾つもあった。なぜ自分の家の場所を知っているのか。今までどのように過ごしていたのか。あのくのたまとは、その後どうなったのか。
 そして、どうしていきなり彼女に会いに来たのか。

「…あのさ、」



 話の口火を切ったのは、竹谷の方だった。赤々とした夕日は、既に山の稜線と交わり姿を隠し始めている。名前がビクッと身体を震わせて横を向くと、竹谷は一瞬目を丸くして微笑みながら目尻を下げた。その仕草だけで、熱くなってしまう頬。
「元気、だったか?」
「…え、ええ」
「…そっか」
 そりゃ、良かった。男はそうゆっくり呟くと、ゆらりと立ち上がる。そのまま歩き出した。
 まさか、と名前は思ったが、竹谷の足は止まらなかった。もう帰ってしまうのか。慌てて立ち上がった彼女は、震える手で咄嗟に外套の裾を掴む。
「…!」
「あっ…」
 掴んでしまってから、名前は急に後悔の念にとらわれた。振り向いた竹谷の視線から逃れるように俯く。
 なんと自分らしくない事をしてしまったのだろうと名前は思う。恥ずかしさで、自分がものすごくあやふやな表情をしているのが分かった。声なんて出そうものなら、絶対に裏返ってしまうだろう。
 けれども消え入りそうな勇気を必死に振り絞り、やっと名前は口を開いた。そこから出た言葉は、名前が一番竹谷に尋ねたかった問いであった。

「ま…っ、また、お会い出来ますか」

 東の方から広がってきたうろこ雲は微かに夜の色に染まり、辺りは徐々に暗くなり始めている。髪をなびかせる風も、少しだけ肌寒い。
 名前は、二人の足元から伸びる影だけをじっと見つめていた。言ってしまってからの静寂は、実際にはほんの僅かな時間なのだろう。だが名前にはあまりに長いものに感じられた。様々な後悔が押し寄せ、それでも手は藍の裾を掴んだまま離れない。
 しかしその時、鳥が羽ばたくような音と共に名前の視界はいきなり暗くなる。驚いて声をあげる前に、彼女は竹谷に強く抱きすくめられていた。二人を包むものが竹谷の羽織っていたぼろである、と名前が理解するのと、彼女の唇が竹谷のそれによって塞がれるのはほぼ同時だったろうか。
 目を見開いて硬直する彼女は、ふと微かな呟きを聞いた。

「また、な」



 全ては、終わるどころか始まってもいないものだと名前は思っていた。一丁前に「恋」だなんて名付けてみたものの、恋に恋をするような年頃の、ほんの気まぐれのようなものだと思っていた。
 とうに日の暮れた縁側には、名前一人が残っていた。ひやりとするそこに腰をかけ、竹谷が残していったぼろを畳んだり、広げたりを繰り返している。辺りは闇に包まれ、空には小さな月が昇っていた。
 あの時、あまりに呆けていた名前は、竹谷がいつ去ったのか覚えていなかった。夢から醒めたようにハッと気が付くと、竹谷の羽織っていたぼろの裾を握りしめて、一人立ちすくんでいるだけだったのだ。

(まさか。きっとからかわれているんだ)

 同級生のくのたまと、仲良く話す竹谷。ずっと、遠くから見ているだけだった自分。
 会話なんて、したこともなかった。

(都合が良すぎる。でも、『またな』って)

 火照ったままの顔。目を瞑れば暗闇の中に浮かび上がるのは、先ほどまで隣で見ていた竹谷の横顔だ。名前は乾いた唇をそっと指でなぞった。
 竹谷が卒業した後もずっと自分のことを覚えており、会いに来てくれた。そんな虫の良い考えを、ブンブンと頭を振って消し去る。ずっと昔に終わった恋の筈だった。ただ遠くから眺めているだけの、憧れにも似た感情。
 けれども、今になって名前は無性に焦がれていた。千切って捨てた想いが、心の底にしまって置いた竹谷への恋心が。熱い吐息と共に沸々と、胸の内からこみ上げてくるのだ。
 強く目を閉じて、ごわごわした藍を抱きしめる。

(…竹谷、先輩)



 日は沈み、沈黙の夜が訪れる。風も無く、ただ月だけが煌々と辺りを照らし出していた。大木の中ほどから伸びる太い枝に腰を下ろす竹谷は、片膝を抱えてじっと闇を見据えていた。
「戻ったか。八左ヱ門」
 すぐ下に気配を感じてチラと視線を向けると、鉢屋三郎がいた。学園時代の友であり仕事仲間でもある鉢屋は、己が腰を下ろす木に寄りかかって腕組みをしている。
「遅かったな。何をしていた」
「…」
「会ってきたのか、あの娘に」
「…質問攻めだな。そんなに気になるのかよ」
 足下からはフッと笑ったような声。竹谷は視線を落とし、己の手のひらを見た。薄汚れた手のひら、ずっと恋い焦がれていた名前をかき抱いた、手のひら。
 鉢屋は知っていた。竹谷がずっと名前へ想いを寄せていた事を。数年前のあの日、特別な気持ちを抱いたのは名前だけではなかった。あの時竹谷もまた、名前に心を奪われたのだ。
「…悔いは残すなよ。未練もな」
 鉢屋は、彼らが明日赴く死地をわざわざ見て来たらしい。ここ何ヶ月か続いている合戦。上の命ならば、いかなる事でもせねばなるまいと鉢屋は言う。竹谷はバリバリと頭を掻いた。
「この道を志した時から、概ね覚悟は決めてんだ。悔いはねえよ」
「…だな。…なあ、八左ヱ門」
「あん?」
 鉢屋は曖昧な笑みを浮かべ、それから言葉を濁す。呼びかけた癖に、という言葉がぎりぎりまでせり上がってきたが、竹谷は何も言わなかった。気心の知れた仲なのだ。鉢屋はそのまま口を閉ざし、辺りは再び静寂に包まれる。
 竹谷は頭の後ろで手を組んで幹に寄りかかり、空を仰いだ。月の光に目を細め、遠くに思いを馳せる。
(『願わくばまた、』は未練になるか)
 目を閉じれば、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をして己をまじまじと見つめる名前の顔。竹谷は苦笑いした。
(ああ、やっぱり可愛かった。俺はあいつが好きだったんだなあ)
 一日だけ得た暇だった。会いたかった人に会い、やっておかねばならない事をやった。そして最後に、名前へ会いに行ったのだ。
 離れてからもずっと、好きだった名前の元へ。
(元気でいろよな、名前)
 雫と共に、流星が弧を描く。

 月は、いつまでも二人を見ていた。

希う


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