初恋(Q)
おぼろげな記憶が時折意識に浮かび上がる。まだ自分が幼い頃のそれは、すっかり色づき陽の光に輝く黄色いイチョウの木の下で見知らぬ子と遊んだ記憶。
その子の顔も、声も、性別も忘れてしまい、最近ではすっかりそれは夢の中の出来事のような気がしていた。
「遅くなってごめんね、渚君。」
カヲルがピアノを弾いているところへシンジが小走りでやってきた。シンジは右手に鞄を持ち左手で楽譜を抱えている。
付き合いだしてからというもの、放課後は連弾をして過ごすのが二人の日常だった。
「大変だったね。今日は日直だったんだろう?」
「うん…でも渚君と早くピアノが弾きたくて頑張って仕事を片付けてきたんだ。」
シンジははにかみ、頬を染めた。そんな愛らしいシンジの様子にカヲルも微笑む。
「嬉しいよ。僕も早く碇君に会いたかった。」
「そんな…渚君ったら…」
見つめ合うカヲルとシンジの周りをベビーピンクのハートがふわふわと漂い始めた。
二人の親密な雰囲気はATフィールドよりも強力なようで、忘れ物を取りに来た生徒は甘い空気が漏れ出す音楽室に遂に入れぬまま去っていくほどである。
ひとしきりキスを楽しんだカヲルとシンジは名残惜しそうに唇を離した。
「…そろそろ弾こっか。」
「そうだね…。」
お互いにキスだけで満足しているわけではないのだがこの先は夜のお楽しみにとっておくのだ。
それに早くしないと下校時間になってしまう。
カヲルが譜面台に置いていた楽譜をしまおうと取り上げたその時、はらりと何かが床に落ちた。
「…葉っぱ?」
シンジが拾い上げたものは美しい黄色を留めたイチョウの葉の栞。
「幼い頃に拾ったものだよ。どこで拾ったのかすっかり忘れてしまったのだけれど。」
「…そう。渚君が忘れちゃうなんてなんか不思議。渚君ってなんでも覚えていそうだから。」
シンジが可笑しそうに笑った。その笑顔がどことなく寂しげに見えるのはカヲルの気のせいだろうか。
「さっ、ピアノ弾こう!」
シンジに促されてカヲルは鍵盤に手を置く。
奏でられる二人のメロディーは今日もぴったりと揃って美しいものだった。
「渚君、ちょっと寄り道しない?僕の大好きな場所があるんだけど。」
帰り道、大きな公園の角でシンジはカヲルの手を引き立ち止まった。
「いいよ。どこへ行くんだい?」
「ふふっ、内緒。」
シンジはカヲルと手を繋いだまま公園内の小道を行く。遊具やアスレチックがあるところを抜けた公園の一番奥でシンジは立ち止まった。
「ここは…?」
きっと何かの木を見るためにその場所は作られたのだろう。大きな切り株の周りはひらけていてベンチが並んでいる。
シンジにつられてカヲルはひとつのベンチに腰かけた。
「僕、小さいときからここが好きなんだ。嫌なことがあるたびにここへ来て、あの木の幹にもたれてぼんやりしているとなんだか元気が出てね。」
「そうなんだ…。」
シンジが何の話をしたいのか分からないカヲルは曖昧に頷く。
「あの日も幼稚園の友達とケンカして、ひとりでここで泣いていたんだ。そしたら知らない子が声をかけてくれた。どうして泣いているのって。」
シンジがその日を懐かしむように頬笑んだので、カヲルは胸がチクリと痛んだ。カヲルの知らないシンジがいることが少しだけ悔しい。
「その子は僕にハンカチを貸してくれて、涙をふいたあと一緒に遊んで。その後その子と会うことはなかったけど、僕にとっては大切な思い出なんだ。」
シンジがちらりとカヲルの表情を伺うとカヲルはひどく寂しそうな顔をしていて、シンジはそっとため息をついた。
「その子は僕の初恋…今でも忘れられない。」
「碇君の…?」
「うん。」
カヲルはそっと目を伏せる。シンジの今の恋人は自分だけれど、そのシンジには忘れられない人がいたなんて残酷な話だ。そんな話を聞かされるなんて心外である。
そんなカヲルを尻目にシンジは鞄の中から何かを取り出した。
「…これで涙を拭いて。そしたら僕と遊ぼう?」
「碇君…?」
差し出されたハンカチは真っ白で刺繍が入っている。見覚えのある、薔薇の刺繍とイニシャルが入っているもの。銀色の糸で「K.N」と綴られている。
弾かれるようにカヲルはシンジを見た。
「こ、これは…」
「本当に渚君は忘れてしまったんだね。」
シンジが苦笑する。
「すまない…僕は大切なことを忘れてしまっていたんだね…」
あの日、この場所には大きなイチョウがあった。太陽の光に透ける黄色の葉、その下で泣いていた漆黒の髪の男の子、涙をぬぐった薔薇の刺繍のハンカチ。
「あの日から僕はずっと渚君のことが好きだった。住所も名前も知らなかったから、中学校で渚君を見つけたときは息が止まりそうだったんだよ。」
シンジは笑う。
その時のことはカヲルもよく覚えていた。満開の桜の下で驚いたようにカヲルを見つめる藍色の瞳。その美しいまなざしにカヲルは一目で恋に落ちたのだから。
「碇君…僕は…」
カヲルは目を伏せ、言葉を探した。記憶の彼方に幼いシンジを追いやってしまったことへの謝罪の言葉を。
そんなカヲルをシンジが抱きしめる。
「謝らなくていいよ。…僕は渚君が僕を好きになってくれたことが嬉しいんだ。もう二度と会えないだろうと思ってた人と再会できてそれだけでも幸せだったのに、渚君は僕を選んでくれた。」
「碇君…」
カヲルの涙をシンジは薔薇のハンカチでそっとぬぐった。
「昔のことなんて忘れていいんだ。…でもこれからの僕のことは覚えていてね。」
カヲルが見上げるとシンジはその藍色の瞳を細めた。カヲルもつられて笑う。
「もちろんさ。…一生をかけてたくさんの思い出を作ろうよ。」
「約束だよ、カヲル君。」
突然呼ばれた自分の名前にくすぐったさを感じながらカヲルは差し出された小指に自分の小指を絡めた。
「シンジ君のことは僕が幸せにするよ。」
二人は見つめ合い微笑むと、どちらからともなくキスをした。
‐おしまい‐
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カヲル君はシンジ君とのことなら何でも覚えていそうだと勝手に思っているのですが、それを敢えて裏切ってみました。私の中でQ組はシンジ君の方がしっかり者のイメージ。だからシンジ君はカヲル君との出会いをずっとずっと覚えていたのでしょう。
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