10:帰り道




「その足、どうしたの」

置いていた荷物を手に、部屋へ入ったところで声が掛かった。
眠気に頭が覆われる中、引き摺るような歩き方の事を言われたのだとようやく気づく。


「あの時の怪我?」

あの時、とはビルが崩壊した日の事だろう。
心配そうに見下ろしてくるエンヴィーに曖昧な音を返し、未登録はベッドへ腰掛けた。
そのすぐ隣に、もう一つ重みが加わってきてベッドマットが沈む。
未登録は内心、「う、」と息を詰めた。
出来れば今日はもう、一人にして欲しかった。


「そういやなんでこんなもん被ってんの?気になるんだけど」

珍しい、と指先で頭上のフードを持ち上げられる。
未登録は咄嗟に襟元をきゅっと閉じ、さり気なく顎を引いた。


「さ、寒くて…」

「ふうん?」

先程から、未登録はまともにエンヴィーの顔が見られなかった。
明るい室内では、もうどうにも彼の目を見る事が出来なかった。
そんな状態なのに、エンヴィーはすぐ傍でこちらを観察し続けている。


「私、今日はもう寝…」

言い掛けた時、エンヴィーの手がフードの隙間から未登録の頬に触れた。
考える間もなく彼の方を向かせられると、途端に逃げ場を無くした両目が泳ぎ出す。
エンヴィーは一点を見つめたかと思うと、未登録の唇の端を親指でなぞった。

視線を注ぐ先にあるのは、多分あの傷口だった。
血を溜め込んでいて、洗っても裂け目の赤は抜けず、今も周辺の皮膚は引き攣ってごわごわする。

額の生え際を指で梳かれると、未登録の肩が一瞬揺れ動く。
顔の輪郭付近、細かな傷の一つ一つまで光に、彼の前に晒された気がして不安になる。
エンヴィーは少し眉を寄せた。


「…もしかして、そこら中怪我してんの?」

未登録の着ている、やけに丈の長いレインコートに似た上着。
エンヴィーは上から下までボタンが留め切られている様を見下ろした。

本来、未登録が必死になって怪我を隠す必要は無かった。
堂々としていれば良いのに、明日からも気づかれずになどいられないのに、未登録は見られたくなかった。


今日はもうその件に触れて欲しくない。

未登録は一切の記憶を、今夜だけは意識から最も遠い倉庫へ押し込めたかった。
暗闇で目を閉じても、再生し始める映像の無いように。

何を訊いても反応に乏しい未登録を、エンヴィーは黙って見つめた。
自分の方を向かせた筈の頬は、また下を向いている。
その為か、広く見えている額に唇を落とした。
何処か自然な、不意の感触に未登録は瞳を見開く。
けれど顔を上げようとしたら、目の前の景色に耳元がぞわりとした。

彼の肩の輪郭から覗く白い電球、彼の顔のぼやけた陰影。
視界に広がるエンヴィーの姿を直視出来ない。
安定した黒髪の流れが、あの風を、丘の空気を呼んでくる。
未登録は、素早く更に下を向いた。


「何、その反応」

「……」

後には微動だにせず言葉も無い未登録をどう見たのか、エンヴィーはふっと笑ってベッドから腰を上げた。


「まあいいや。話はまた明日。もう寝なよ」

お疲れみたいだし、と額の辺りを混ぜられ、未登録はその手の感触にぎゅっと目を瞑った。
子供みたいな仕草だとでも思ったのか、エンヴィーがもう一度笑う気配がした。





また明日。


離れていくエンヴィーの手と逆の方向を向いて布団を引き寄せる。
部屋の照明が消える。
真っ暗闇に寝転んだ未登録は、思い出したように上着を脱ぎ、惰性でベッドの背に掛けた。


…そういえば、寝間着に着替えてない。
足だけでも、もう一度洗ったら気持ちいいだろうな。

そうだ、持って帰った生乾きの服、どうにかしないと…。


頭の中の独り言もそれが最後で。
安定した暗闇の訪れに、すぐにでも眠りたがる目鼻や口が、率先して静かな感覚に落ちていく。
耳だけが、外の世界に向き合ってまだ起きている。
エンヴィーが部屋を出て行くのを、未登録は溶けていく感覚の端で感じていた。
徐々に遠くなる足音に、誰も居なくなる事に、眠ってもいいのだとほっとした。

酷く疲れていた。

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