10:帰り道 一人になった未登録は丘に留まり、失くした片方の靴を探した。 そういえば麓で身に着けた筈の髪留めもない。 小さなそれは諦め、やがて帰りの坂道を下り始めた。 ちらちらと周囲を見回し、注意深く斜面を進む。 もう雪や氷は残っていない。 片足を庇って歩く度、響く振動に脇腹が痛んで息を吐いた。 日中は春のようでも、夕暮れ以降は季節が巻き戻り、吸い込む空気は冷たい。 薄暗くなっていくこの道で見つかるのは、草や石ころ、泥に馴染む朽ち葉や細かな枝くらいだ。 他には何も落ちていないのに。 外気に冷える腕を抱く未登録の手は、いつまでも震えていた。 青い夕闇の深くなる中、街行く人々の幾らかは未登録を見て驚きの表情を浮かべた。 ショーウィンドウに映る姿は酷い有様で、このまま宿泊先の絨毯を踏むのは躊躇われた。 未登録は路上店でフード付きの丈の長い上着を購入し、乾いた泥を出来るだけ払ってホテルに向かった。 5階フロアに着き、兄弟の部屋のドアをノックする。 エドもアルも出掛けていた。 ふと扉に触れた自分の手に目を落とすと、爪の間に泥が挟まっているのが見えた。 上着の裾から出る膝下の状態も褒められたものではなくて。 未登録は一度宿泊室に戻り、シャワーを浴びる事にした。 使い慣れた浴室に立つと、急に最近の日常が戻って来た気がした。 シャワーのコックを捻る。それだけで今日は脇腹が疼き、どうしても息が浅くなる。 微調整の利かないヘッドが、打つ程の水勢で顔や身体の粉っぽい泥の膜を粗方押し流していく。 そのまま頭から湯を被ると、途端に染みるような感覚が広がった。 自然と目蓋が閉じていき、深く息を吐く。 辺りを包む、止め処ない水音と立ち込める湯気にほっとした。 一頻り温まっていると、身体が至るところで傷や痛みを訴え始め、それらはひりひりと熱を持った。 鏡の中で知らない傷や打ち身に気づく。 口元の弱い皮膚に、凝固した血液が目立ってこびりついていた。 その表面の血を指先で溶かして洗う。 動きの悪い唇から湯を含み、口の中をゆっくりと濯ぐと、血の混じったとろりとした唾液が排水溝へ流れて行った。 未登録は当初に着ていた服へ着替え、少ない荷物をまとめた。 真新しい黄色いワンピースが、畳んでも眩しくて仕方ない。 洗ったばかりの白いワンピースは、タオルで包んだ後に室内で干し、最後に詰める事にした。 忘れ物のないように部屋の中を点検する。 自分の為に用意してくれた物を1つでも置いて出て行ったら、それは寂しい別れになる気がした。 「未登録お帰り…って。何よ、何処か行くの?」 支度を済ませて503号室を訪ねると、ウィンリィがすぐに顔を出した。 見慣れない上着を羽織る未登録を見て目を丸くする。 「あんた、その怪我…」 顔を見るなり眉を曇らせたウィンリィに、未登録は大した傷じゃないからと笑った。 「あのね、実は私、今日此処を発つ事になって…」 「え!?」 「エドとアルは…分かってくれてると思うけど、ありがとうって、二人にも伝えて欲しいの」 「また随分…、急ね」 仕方ないか、とウィンリィは控えめに笑った。 「お互いいつまでも子供じゃないんだし…。元気でね。けどあまり無茶しないのよ?」 「ありがとう。ウィンリィも、元気で」 未登録は出来るだけ自然に廊下を歩き、見送ってくれるウィンリィと笑顔を交わした。 到着したエレベーターの中で最後に手を振る。 その時、閉まっていくドアの狭間で不意に「人質」という言葉が思い出された。 手を振り続ける未登録の顔から表情が消え掛ける。 瞬く間にウィンリィの姿は見えなくなり、扉は完全に閉まった。 エレベーターが降下し始めると、すぐ下の階で他の宿泊客と乗り合わせた。 男性は新聞を抱えている。 紙面の内、目につく場所へ掲載されたその記事の見出しにも写真にも、未登録は気づかない。 じきに、エレベーターはロビーへ到着した。 一階の玄関ホールは、到着したての団体客と、寛ぐ既存の宿泊客とで混雑していた。 未登録は緩やかな人の群れを横断してホテルを出ると、街灯が規則的に並ぶ大通りを真っ直ぐに進んだ。 足が不自由だと、急に世界が広くなったように感じる。 未登録は出来上がった今日の夜空を見上げた。 あても無く歩く訳でもないのに心細くなるのは、身体の疲れのせいだろうか。 通りを吹き抜ける風が、髪を飛ばし背中を押す。 この空の先に、何を期待してこの道を歩くのか。 信号待ちに深呼吸を一つして、未登録は長い道のりを本格的に歩き始めた。 …大丈夫。 安らぎなんて作っていける。 一人の時があっても。 温水で流すみたいに、自分で作っていければいいから。 だから大丈夫。 そう何度も、未登録は自分の胸に言葉を重ねた。 二時間近くを掛けて。 未登録は棒に似た足でアジトの入口まで辿り着いた。 指定された出入り口をくぐり、緩やかなカーブを只管歩き続けると、界隈の通路が馴染みのある景色に変わっていく。 誰にも会わないまま、遂にあの小さな部屋の前まで帰り着いた。 [page select] [目次] site top▲ |