10:帰り道




「…一体なんの意地で、貴女はこんな目に遭ってるのかしらね」

波打つ黒髪を大振りな風に任せ、ラストは言った。

夕刻になっても止まない風。
それは少女の纏う泥を干乾びさせ、白いワンピースの辛うじて無事な部分を揺らして寒々しくさせた。
傍目に見て、未登録は惨めな姿だった。


「だけど驚いたわ。貴女が焔の大佐と接触しても何も起きなかったんですもの。あの男に絆されるとばかり思っていた…」

言いながら、分厚い泥の上を高いヒールで近づいてくる。
未登録はびくりとし、樹皮に腕を這わせて身体を逃がす。


「大丈夫。もう殺そうなんて考えてないわ」

その言葉が本心かどうか。「分からない」と思うも、未登録はそれ以上は考えなかった。
言葉や態度の裏を勘繰るだけの精神力が残っていなくて。
座ったまま警戒を示し、感覚の及ぶ場所から四肢や指を動かして体勢を直すに留まる。


「馬鹿よ。貴女もあの子も。貴方達が一緒に居るのはとても不自然だわ」

他に見合う相手が居るでしょうにと、ラストは苦い笑みを浮かべた。
人間の少女である未登録に適した相手が居る筈だと。


「…貴女は、私が思うよりもあの子の事が好きなのね」

静かな声色だった。
未登録は顔を上げ、目の前で美しく伏せられる長い睫毛を見つめた。


「エンヴィーは元に戻るわ。罰は今日で終わり」

「…、罰?」

「そう。前に貴女を殺さなかった罰。あの子、賢者の石の一部を没収されていたの」

核たる石に手を加え、不安定になっていたのだと言う。


石。賢者の石。
手渡された、途轍もない力を蓄えた紅い石塊。


「その石って…」

「貴女の怪我の治療に使った物よ」


…じゃあ、あれは。


あの力はエンヴィーの中にあったものだったのだ。
未登録は賢者の石となった沢山の人々の声を思い出す。
闇の深淵から響く、魂の声。


あの声はいつも、エンヴィーにも聴こえているのだろうか。


「石の力が足りなくて、例のビルの爆発の時に底が尽きてしまったの。お父様はすぐにあの子を元に戻したわ。貴方に関する記憶を除いてね」

「それも…罰?」

「いいえ。お父様が不要なものと判断しただけ」

不要なもの。
未登録は飲み込む水分も無いのに喉を上下させた。

「核がある限り、お父様は何度でも、あるがままの私達をお造りになる。でも今回は違う。記憶の一部を再構築しなかった。それがお父様の意志だった」

其処まで言って、ラストはふと笑う。
表情の小さな揺れから、未登録の心の動揺を見透かした。


「安心なさい。言ったでしょう?状況が変わったと」

差し出されたラストの右手。
不思議と、拒む気持ちは湧いてこなかった。
その優美な手を、未登録はゆっくりと取った。
確かな柔らかさと体温が伝わってくる。
普通の、人間の女性と手を繋いだ時と同様に。

そのまま手を引かれ、立ち上がろうにも身体がぐらつく。
片足を捻挫したらしく、少しでも体重を掛けると鈍化した痛覚が蘇って駆け抜ける。


「あの子の記憶も元通りになる。お父様のお力で。…さあ、行きましょう」

「待って、私」

「帰るんでしょう?」

「…お別れを言ってから、戻りたい」

エド達が許してくれていても、そうしたかった。
未登録は今日、誰かに連れて行かれる訳ではないから。


「…そう。…貴女があの子と出掛ける時によく使う出口。今夜あの通路を開けておくわ」

誰にも知られず戻ってきなさい。

そう告げるラストに驚いている内に、彼女は身を翻す。
長い黒髪が揺れる。
それが、いつか見た後ろ姿と重なる。


「あの、……ありがとう」

風の中に紡がれた言葉に、紅い瞳が振り返った。


「私は、貴女には死んで貰うつもりだった」

ラストは自分の手で未登録を始末するつもりだった。
今後余計な懸念を生まない為に。
未登録が口を閉ざしていてくれるなら慌てず葬れるだけの事だった。
何も知らないエンヴィーが未登録を殺したいのであれば、それも異存は無かった。
但しそれらは全て、エンヴィーの記憶が決して戻らない前提での話だ。


「記憶を戻す以上、貴女に居て貰わないと私が苦労するのよ。構わず当たり散らして仕事にならないのは目に見えてるもの」

いいえ、もっとずっと酷いかも。
考えつくだけの光景を胸にラストは髪を掻き上げる。

「それなら多少リスクがあっても、機嫌良く働いて貰う方がいいわ。それに…」


「それにあの子、貴女が居る方がよく働くのよね」

きっとそれをお父様もお認めになったのよ。
そう言って可笑しそうに笑う。

慣れない笑顔だった。
こんな風に話す日が来るなんてと、未登録はぼんやり思う。

「…少しでも、長く生きなさい」

紅い瞳の奥。
慈愛に似たものを見るのは、未登録の胸に生じた錯覚だろうか。


「私の言う事じゃないわね」

自嘲気味に呟くと、ラストは暮れなずむ景色を遠ざかって行った。

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