10:帰り道


ナイフの残像を見たかと思うと、未登録の身体が強く揺れた。

痛みはない。
薄く瞼を開くと、すぐ目の前でエンヴィーが動きを止めて頭上高くを見つめていた。
未登録が背を預けている樹幹の上方に何かぶつかったらしい。
視界の隅で彼が立ち上がると、同時に首元を解放され、未登録は溜まった唾液を飲み込んで息を吐き出した。
飛び散る光の残像に頭がくらりとする。
縺れる手足で樹木へ深く寄り掛かり、その後は堰を切ったように呼吸を繰り返した。


「何しに来たの」

これまでの事が嘘のように、いつもの調子の彼の声が聞こえた。
涙で霞む視界には、少し低い位置から丘を歩いてくるラストの姿が映り込んでいた。


「やっと見つけたわ。間に合ったかしら」

彼女は樹木に突き刺した爪を素早く戻すと、エンヴィーの前を素通りし、木の根元に蹲る未登録を覗き込んだ。
途端ごく一瞬、ラストは不意の眩暈を思わせる仕草をした。
天を仰いで短く嘆息する。


「これはまた…派手にやったわね」

未登録は頭から手足の先まで泥にまみれ、息も絶え絶えに青い顔をしていた。
こびりついた泥にはところどころ濃い血が混じる。
いつの間に脱げたのか、靴は片方しか履いていなかった。


「なんで止めるんだよ」

「止めるわよ。貴方が激しく後悔するのは分かり切ってるもの」

「は?」

状況が変わったのよ、とラストは億劫そうに言う。


「ああ、嫌ね。癇癪を起こす無様な姿が今から目に浮かぶわ。いい迷惑よ」

「…なんなの。一体」

「とにかくお嬢さんを殺すのは諦めなさい。今すぐ戻れと、お父様からのご命令よ」

「お父様が?」

少し考える様にしてエンヴィーは黙り込む。


「どういう事。なんでお父様が…」

「戻れば分かるわ」

エンヴィーは軽く息を吐くと、興を削がれたという風に指先でナイフを遊ばせた。
彼は樹木の方を向き直すと、動けないでいる未登録と目を合わせる。


「良かったね。まだ生きてて」

乾燥し始めた目蓋の泥も手伝い、未登録は虚ろな表情のままだった。
時折ぎこちなく瞬き、半開きの傷んだ唇で浅めの息をする。


「あと一瞬遅かったらほんとに死んでたよ?」

運がいいね。そう付け加えてエンヴィーは無邪気げに笑った。
この期に及んでと大方諦め顔のラストには最後まで気づかず、彼は丘を下って行った。

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