6:待罪-後編- 料理はまだ温かった。 室内には椅子とテーブル以外に家具はなく。 日用雑貨の類が一切ない点では、彼女の部屋以上に生活感に欠けていた。 部屋には窓が一つあり、厚手のベージュのカーテンで隠されている。 運ばれてきた料理は手付かずだった。 未登録は、微かに立つ湯気を見つめている。 空腹を満たすより、今の内に少しでも考えをまとめたいと思うのに、頭の中はぐるぐると渦を巻く。 依然食事をする気力は湧かなかったが、出された物を食べないのは失礼にあたると思い直し、フォークを手に取った。 その時、かりかりと硝子を掻くような妙な音がした。 振り向くと、閉め切られたカーテンの向こうから「にゃあ」と声がする。 暫くそのままにしていたが、窓の外の珍客が立ち去る気配はない。 それどころかしきりに鳴くので、席を立ってカーテンを少し捲り、窓を数センチ開けた。 隣の屋根を伝ってきたのだろう一匹の黒猫が、窓の隙間からするりと身を滑り込ませる。 彼女の足元に擦り寄り、餌をねだった。 未登録は、テーブルに置かれた籠からパンを一つ手に取り、小さくちぎって与えた。 他にも猫の好みそうな物を選んでいると、不意にノックの音がしてドアが開いた。 「あら」 そう声を発した女性は、皿を持って立つ未登録と、床の上の猫を見て瞳を瞬いた。 ドアの開く音に飛び上がった猫は、そのまま一目散に窓から出て行った。 「あまり食べていないのね。もうじき大佐が来るから、話をして貰えるかしら」 ややあって未登録は小さく頷く。 心臓の音に逸る心を落ち着かせようと、息を吸い込んだ。 ロイ・マスタング大佐。 彼を相手に、どれだけ隠し通せるだろう。 大の大人だってあの目で見られたら、たじろぐ事もあるかもしれない。 未登録はロイの黒い瞳を思い出しながら思う。 それでもこの場を逃げ切るしかないのだと。 爆発の後、ロイがビル内に立ち入るより前に、老朽化していた建物は全壊した。 錬金術師の行方は分からない。 ロイは予想より早くハボックの元に戻り、それから車に乗せられるまでの間、 未登録に逃げるチャンスは訪れなかった。 今はと或る空き家の一室まで連れて来られているが、どうやら交代で見張られているようだった。 脱出出来るかどうか、窓の外は調べていない。 少しでも逃げるような素振りを見られたら、お仕舞いな気がしていた。 こうなってしまった以上は会話上で逃げ切るしかない。 それが出来なかった時、どうなってしまうのか。 想像するのが怖い。 大佐達はどんな行動に出て、対する組織は何をするのか。 自分は、どうするべきか。 …エンヴィーはその時どうするだろう。 ふと爆発の光景が、飛び散る幾多の破片がよぎった。 揺らぐ視界の中で見た彼の姿が蘇る。目の前が、真っ暗になりそうだった。 今は、考えては駄目だ。 未登録は振り切るように心の中で頭を振った。 程なく部屋に現れた大佐は、簡単に自己紹介を済ませて椅子の背を引いた。 テーブルを挟んだ向かいに腰を下ろす、そのゆっくりとした動作を見つめる。 「こんな場所に連れ込んですまない。早速だが、幾つか訊きたい事がある」 この瞳を前に、本当にどれだけ、隠し通せるだろう。 だって、大佐達はあそこに居たのだ。 石を持った錬金術師のところに。 他の何処でもないあの場所で張られていた。 あの親子の事件も知られている。 「まずはじめに、君は数年前に両親を亡くしているが、あの日、君は犯人を見たのか?」 彼は会話をしながら、上着のポケットから小さな手帳を取り出す。 そして、未登録の父を錬金術師として勧誘しようとしていた事、その後事件について調べた事を明かした。 「…見ました。女の…人でした」 「女、単独犯か?」 「おそらくは…でも、あの日の事は、はっきりとは覚えていないんです」 彼女の顔も声も、よく知っている。 いつだって姿を見掛ければ記憶は歩き出した。 思い出したくはなかった。 記憶を追い駆ければ憎んでしまう。 以前彼女が言っていたように、きっと自分には誰かを恨み続ける事など出来ない。 苦しすぎて出来やしない。 「…覚えていない、か」 ロイは確かめるように呟いた。 僅かにその瞳を細める。 「思い出したく、ないだけかもしれません」 こんな話が何処まで通るか分からないけど。 今は本音を混ぜる事だけが、自分に出来る唯一の事に思えた。 あの日、未登録は練成を行っている。 自宅のリビングの床には当然、練成痕が残っている筈だった。 姿を見るどころか、ラストと鉢合わせになって抵抗した。 その時の状況をロイが問わないのは、村の隠蔽工作のせいか。 未登録は事件直後、現場である自宅から失踪し、 遠く離れたセントラルで時を過ごす事になったが、ロイはそれについても言及しなかった。 代わりにただ一言、「私は今この事件の犯人を追っている」と告げた。 「バートン氏の書斎に、国内で過去に起きた紛争や事件を調べていた形跡があった」 ゆっくりと呟かれた言葉に未登録は首を傾げる。 「あの、…それが何か」 「似ているんだ。私の友人が殺害された時と」 「ご友人が…」 ――“私の友人や、君の両親を手に掛けた者達じゃないのかね?” そういえば、あの時大佐はそんな事を言っていた。 かけがえのない人だったに違いない。 対峙した瞬間から自分に向けられている瞳の厳しさの理由を、初めて知った気がした。 今もその目は何処までも真っ直ぐに未登録を見つめている。 彼女を見定めようとしている。 「軍の将校だった。マース・ヒューズという男だ」 未登録は目を見開いた。 脳裏に浮かんだ人物の顔は、穏やかに笑っていた。 …亡くなった?ヒューズさんが。 殺された。あの組織に。 自分の知らない間に、自分の知っている人が。 「…病院で、お会いしました」 膝の上に置いた両手が小さく震えている。 「病院?そうか。鋼のが入院していた時だね」 「はい…」 ショックを隠し切れない未登録の様子に、ロイは暫し考え込むような素振りを見せ、口を開いた。 「私は、君が今日まで無事だったのは、奇跡的な事だと思っている」 奇跡的な事。 未登録は顔を上げる。 すぐに納得した。 未登録が入院に至るまでや、その後病院から失踪した時の事。 エドが何処まで話したかは分からないが、その都度報告を受けているのだろう。 「さっきは感情的になってすまなかった。尋問まがいな事をしているのもすまないと思っている」 不意の謝罪に、未登録は慌てて頭を振る。 さっき、というのは路上で出会した時の事だろうか。 確かにあの時は今よりも強い口調だった気がする。 だけどそれは無理もない事だ。 自分は確かに、あの組織と関わっている。 ロイは少し困った様な顔をした。 [page select] [目次] site top▲ ×
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