3:その日のふたり



朝という現象は、最高潮に達するまでが早い。
太陽は素早く空へ駆け登り、色が溢れ、街や人は起き出し、動き出す。
そしてしばし、一日の内で最も安定した時間を得る。






瞬間、勢いを増した横風に未登録は小さく身震いした。

完全に日は昇った。
そしてよく晴れている。
それでも随分と冷え込んでいると感じた。

息が見えないのが不思議なくらい、寒い。

視界いっぱいに広がる青。
晴れた空の、遥か上空に浮かぶ真っ白な雲。
船のような大きな塊が、ゆっくりと動き、何処かへ向かい前進する。

ゆっくりと。
微妙に変化し続けながら。


きっとあそこは、凍えるほど寒いに違いない。






「少しは、気分良くなった?」

吹きつける風の中。
肩を竦めたまま未登録は地上に目をやる。
振り向くと、彼が歩いてくるのが見えた。

エンヴィーは軽い足取りで未登録の真横まで来ると、その隣にすとんと腰掛ける。
彼が少し首を傾げる仕草をすると、それに合わせて黒い髪が風に揺れた。



…そうだった。


未登録は其処でやっと思い出し始める。

昼前の事だった。
念の為にと帽子を被った未登録と、見知らぬ人間の姿を取ったエンヴィーは真昼の飲食店街を歩いた。
外に出るのも久しぶりなら、その通りを通るのも久しぶりだった。
未登録は彼とはぐれないよう気をつけながら、
威勢のいい店員達の声と、其処に集った人々の活気に溢れ犇めき合う店を眺め歩いた。
中には、見覚えのある看板や人の顔もある。
エドとアルとの再会を果たしたのも、確かこの辺りのレストランだった。


「いつも思うけど、人間てのはほんと不便だね。常に何か食べてなくちゃ動けないなんてさ」

考えられない、と借り物の声で言いながら、客と皿で埋まる飲食店のテーブルを呆れたような目で眺める。

未登録はエンヴィーの横顔を見上げ、少し表情を曇らせた。
この場所において異質なのはきっと彼なのだが、居心地の悪さを感じているのは未登録の方のようだ。

「…別に私、食べなくてもいいよ。お腹も減ってな…」

「駄目。ほら行くよ」

ぴしゃりと言って、未登録の手を引くと、エンヴィーは軒を連ねる飲食店の一つに入っていった。

店内は熱気に満ち、人の声で溢れていた。




ざわざわ。

ざわざわ。



声が重なり、集まり、
反復する波に似て連なり響く。




瞬間、ぞわりと、
未登録の中に悪寒のようなものが湧き上がってきた。



ざわざわ。

ざわざわ。

そのひとつひとつの音は、意志を持ち、感情や思惑を含み、あるいは何かを強く望み。




「未登録?」

未登録は黙ったままその場に縫いつけられたように立ち尽くした。
エンヴィーが訝しげに、帽子の下の瞳を覗き込む。






声。
沢山の声。

そうだ、あの時。
声を聞いた。
沢山のヒトの声を聞いた。あれは人間だった。


彼等は何を言っていただろう?






「…未登録。」

もう一度、エンヴィーは彼女の名前を呼んだ。
未登録は答えない。





大量の叫びが、頭の中に押し寄せて埋め尽くして。
祈って祈って祈って。
そう。哀しいほど、永い間彷徨った願いを乗せて。





こんな形で石を使う事になるなんて思わなかった。

傷を負ったあのままの身体でいれば、勿論先々で大変な目に遭っていただろう。
未登録には、エンヴィーを責める気持ちは無かった。
きっと彼にはあの方法しか無かったのだろう。

でもあの紅い結晶はあまりに安易で、その癖、強力過ぎた。

あの石が怖かった。
禍々しく、そして、哀しい力。
「使ってはいけないもの」。
すぐにそう直感した。
それを使ってしまった事が、どんなにごまかそうとしても忘れられない。

自分は一体なんの、誰の力を使ってしまったのか。
あの無数の声を思い出すと殊更に恐ろしかった。




未登録は暫くそのまま、人々の笑い声の中に立ち尽くしていた。









一生ものの傷の筈だったのに。

そう思うと、あの兄弟の事を思い出さずにはいられなかった。

[ 120/177 ]

[*prev] [next#]

[page select]


[目次]

site top




×