3:その日のふたり



布団を退け、未登録はベッドから降りる。
足の裏が不意にひんやりとした床の感触を受けても、頭はさほど驚かなかった。
完全に活動時の状態で構えている脳が、冷たい刺激で更に少し冴える。





『あんまり勝手に出歩かないで。』

記憶の暗闇の片隅に蘇る言葉。

『何処で行き倒れるか分かんないし。』

続けてそんな声が聴こえる。



未登録は少し笑みを作った。
そしてぽっかりと開いた空洞に手を掛けてドアを開く。

心とは裏腹、動かした手足は想像よりずっと軽かった。
息苦しいほどの痛みを得ると同時に、身体は行き倒れる理由をなくしたのだ。








「あれ、もう起きたの?」

また声がした。
先程と比べるまでもなく鮮明に。

薄暗い、この闇よりも深い色。
いつだって変わらない色。
絶対的な黒色に浮かぶ肌に、硬質に透き通る黒酸塊が覗く。

それらは未登録をいとも簡単に注目させてしまう。
記憶に刻まれた彼の像との照合は、他の誰のそれよりも短い一瞬。
彼は、未登録が記憶に留めている姿と寸分の狂いもなく目の前に存在しているかのようだ。
そう思い込ませるだけの強い不変性が、彼等にはある。


「…。なんで此処に居るの?」

「…顔合わせた一言目がそれ?」

俺が居ちゃ悪い訳?とつけ足すと、エンヴィーは機嫌を損ねたように拗ねた目をした。

未登録はいつの間にか、部屋に居ながらにして頭上にあるだろう空が夜なのか朝なのか見えるようになっていた。
身についたその感覚抜きにしても、思い出すも考えるもなく、今日ははっきりと時間が分かる。
今は明け方、時計の針があるなら4時頃だろう。



時間の支配から解放されるには眠りが必要なんだ。

未登録はぼんやり思った。



昨夜、彼は仕事に行くと言って部屋を出て行った。
そんな時は大抵半日以上戻らない。
だからこうして自分の部屋の前で彼に出くわした事に、未登録は首を傾げているのである。

理由を待って見つめても、暫くエンヴィーはなんの反応もしなかった。
アジト内に彼は居ないと決め込んでいただけに、精巧な幻でも見ているような心地がする。
エンヴィーはゆっくり首を傾げると、合図でも送るように目を細め、少し笑った。


「…泣いてんじゃないかなーと思って」

未登録はその言葉を頭の中で復唱すると、次にはばつが悪そうに視線を外した。


「なんで私が泣かなきゃいけないの」

「ねぇ、未登録。」

聞こえる声は、あくまで鮮明で。
それでも幻聴のように感じる。
何故だろう、と未登録は考える。


「今日、出掛けようか」

「?でも…私」

「俺が居れば問題ないでしょ?」

外出禁止じゃないの?
そう尋ねるより早く、彼がそう答えた。

「うーん、俺はどうにでもなるとして〜…未登録は変装した方がいいのかなー…」

顎先に指を当て、こちらを見ながら思案するように呟く。





ああ、そうか。



緩く睫を伏せる。
少し頬を熱くし、覚束ない口元をきゅっと縛る。





自然に、名前を呼ばれている。




いつから?



思い出せない。




名前を呼ばれる度に遅れてちらりと彼の顔を窺う。
そんな未登録に気づいている様子もなく、
そして「どうしようかな」等と漏らす割には淡々と、エンヴィーは未登録を外へ連れ出した。

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