1:予感





血の気のない
貴方の口元に寄せる忠誠を




俺は何処かに置いてきた。














「それで、生かしたと言うのだな」

大きな椅子に厳かに構えて。

お父様は少し考える風にして頬骨に筋張った手を当てた。


一通り報告し終わった俺は、判決を待つ罪人のようにその面前に突っ立っていた。







「…よかろう。――その代わり…」

重々しく腰を上げるその動作を見送る。
頭から闇を被り、額の下の深い窪みが黒く満ちる。
創造主の目元は窺えない。






辛うじて照らし出されていた口元は、いつものように無表情だった。



















「外出禁止?」

ベッドの上から、未登録は鸚鵡返しに尋ねた。

「そ。当分はね。許可が下りたら少しずつ仕事してもらうけど」

エンヴィーは水差しを脇に置き、ベッドに腰掛ける。




考えてみれば当然の事ばかりだった。
エドとアルは元より、軍部も未登録を捜している。
迂闊に出歩くべきではない。
そして、組織の一部になればこれからは彼等のように仕事をこなしていく事になる。

「お父様」の命令の下に。


「…必要な物があるなら揃えるから」

無表情で下を向いていたからだろうか。
エンヴィーは未登録の顔を覗き込むと、小さな子供を宥めるように言った。



…どうしてこんなに優しいのだろう。




「ねぇ、何か欲しい物ある?」

じっとこちらをみつめてくる瞳。
恋人にするような問い掛けに、未登録は少しだけ頬を熱くした。


「…そういえば…本、」

「ん?」

「…前にくれた本、何処に」

先程エンヴィーに連れられて部屋へ帰ってきた時に気づいたのだが、壁際にあんなにも山積みにされていた本が、綺麗に無くなっていたのだ。
中にはまだ殆ど手付かずの物もあった。


「ああ、あれ。捨てちゃった」

邪魔だったし、とエンヴィーは事も無げに言うと、ベッドの斜め下の方へ目をやった。
丁度その辺りに本が置かれていたのだ。
彼は書物の山の幻影を見ているのだろう。

未登録がその様子を眺めていると、不意に目が合った。


「…まだ必要だった?」


少し低い声色に、どきりとした。

見透かすような、それでいて試すような視線が真っ直ぐ注がれて、その冷たさにすぐ耐え切れなくなって。
未登録は思わず目を逸らした。


「なんで目逸らすの」

一層不機嫌な声が上から掛かる。
未登録は益々小さくなる。

…この息苦しさはなんだろう。

自分が何を責められているのかよく把握できないまま、未登録は居心地の悪さに身を竦めた。
俯いて押し黙っていると、やがて僅かに溜め息を吐く気配がした。


「…いいよ。なんか暇潰しに適当な奴持ってくる」

他には?と彼は続けた。
当の昔に麻痺していて、今となっては生活上不自由に感じる事は特に無いのだが。
それでも彼は、足りないものがあるなら満たすと言う。


未登録は何と答えてよいか分からなかった。





不自由なんてない。
後悔も無い。




ただ。









「?…エンヴィー?」

驚いて、思わず名を呼んだ。



「…ん?何?」

少し遅れてエンヴィーが未登録の方を見る。
緩慢な動作だ。



何って…。
未登録は言葉に詰まった。

それとも、彼はなんともないのだろうか。


「ちょっと。なぁにってば。気になるじゃん」

エンヴィーは戯けて小首を傾げてみせる。
未登録は違和感を覚えるばかりだ。





顔色が。

エンヴィーの顔が青いのだ。
今の今まで気づかなかった。

彼の白い肌を侵食する青に、未登録は困惑の色を隠せなかった。





こんな事、今まで一度だって。




「エン…」

言いかけて、未登録ははっとした。

こちらを見る彼の目に。

穏やかに笑っているのに、有無を言わせない確かな冷たさが静かに揺らめいている。




「何?」

再び訊かれて、彼女は慌てて身を引いた。


「……なんでも、ない」

他にどうしようもなくそう言うと、エンヴィーは薄く笑って、ひょいと立ち上がって。
そして猫のように背伸びをした。


「俺、仕事だからもう行くよ」



「ああ、そうそう。あんまり勝手に出歩かないで。何処で行き倒れるか分かんないし」

この部屋で大人しくしているよう、エンヴィーは念を押した。


その時の彼は不自然なくらい自然に、
ただなんでもないように、
なんにもないように笑っていた。




まるで優しく目隠しでもするように。

















「これを持って行くがいい」


「それ」を受け取りながら、問い掛ける代わりにちらりと視線を送ると、「娘は重傷なのだろう。」と不思議そうに言われた。





無駄の無いことだ。

俺は心中で呟いた。




軽く握れば、すっかり見えなくなる。




小さな欠片。






だけどそれは皮膚や血管をみるみる透かすように、
俺の手の中で毒々しく輝いている気がした。

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