1:予感 「時間よ」 女の声が、室内に一滴落ちる。 「すぐ行く」 微動だにせず答えた背中に、何度目かの溜め息を漏らす。 「貴方、さっきもそう言ったわ」 「あと5分」 「……」 つい今しがた、五分ほど待ったから声を掛けたのだけれど。 そうぼやきたい気持ちを抑えて踵を返し、ラストは無言のまま古びた扉を閉めた。 もうじき、点滴が終わろうとしていた。 電灯に照らされた顔は、相変わらず色が悪い。 「……」 連れ戻してからずっと、眠り続けている。 そして俺も、こうしてずっと傍らに腰掛けて待っている。 未登録が目覚めるその瞬間に、自分が此処に居ない事態だけは避けたかった。 目を離すと消えそうで嫌だ。 寝台に散らばった髪の一房をそっと手に取る。 ぴくりとも動かない。 腕を少し伸ばして頬に指先を乗せると、やっと初めて内側に燈っている僅かな温度に触れた。 蒼い顔で、あまりに静かに眠るから、こうして時折、本当に息をしているのか気に掛かる。 「…、…」 頭から顎までを辿っても、未登録は僅かに声を漏らしただけだった。 その反応に少し安心する。 未登録がちょっとやそっとじゃ起きない事はよく知っている。 だからなんの心配もないと。 半ば強引に自分を納得させて。 漸く緩慢な動作で重い腰を上げると、 横たわった腕から注射針を取り除いて部屋を出た。 外は夜深く。 早々に仕事を終わらせ未登録の部屋に戻ってきた俺は、「足りない」ベッドを見て唖然とした。 大きく皺の寄ったベッドカバー、途中で二つ折りにされた毛布が、 中に居た人間が起き上がって其処から抜け出た様を記憶していた。 居ない。 途端、ざわざわと身体の中や頭の中が騒ぎ出す。 ぞわりと走る得体の知れぬ悪寒。 誰かがこの部屋に入ったんじゃないか。 誰かがあいつを浚って行ったんじゃないか。 財布や眼鏡を失くした老人の様に妄想めいた疑念が渦巻き、存在しもしない悪意に対し憤りすら感じた。 眼球を忙しく操って室内の四隅まで見回すと、 思考が整理されない内に俺は部屋を飛び出していた。 [page select] [目次] site top▲ |