人生山あり谷あり。今日は絶対谷の日だ。

朝の出勤の時から…電車は目の前で扉は閉まるわ、階段降りてたらヒールは折れるわ、誤字だらけの書類の指摘、お米を入れ忘れたお弁当箱、今日締切の仕事に定時間際で気付く始末。何もかも絶不調。

帰り道、片方だけ折れたヒールで歩いていたものだから、歩き方がおかしくなって転んでしまった。ストッキングまた破れちゃった。折れていなかったもう片方のヒールも折れてしまった。逆に高さが揃って歩きやすくなったかも。なんて思うくらいには、今日一日本当にいい事ない。

───ブブブッ

カバンの中のスマホがメッセージの着信を告げる。折れたヒールを拾い上げながら、メッセージを開く。送り主は同棲している彼氏、隆也からだった。



『残業おつかれ。もう帰れそうか?』



絵文字もスタンプのひとつも無い飾り気のないメッセージだが、今の私には丁度いい。 愛しさが込み上げる。早く会いたくて、帰るスタンプをひとつ送って足早に家路を辿った。




.




「ただいまー」



扉を開ければ廊下の奥のリビングから暖かい光が漏れているのが見える。料理のいい匂いが鼻腔をくすぐる。



「おう、おかえり。手は洗ったか?」



私の帰りに合わせてご飯を準備していてくれたのだろうか。食卓には隆也が用意してくれたであろう夕食が並んでいた。時刻は8時過ぎ。夕食の時間にしては遅めなのに、2人分の食事が並んでいる。言わずもがな、待っていてくれたことが分かる。

荒んだ心がじわじわと和らいで行くのを実感しながら、私は箸を取り出そうとしてくれている隆也の背中に飛びついた。



「うぉ?!びっくりした…どうした?」
「ちょっとだけ、今だけはこのままにさせて」
「最近残業続きだったもんな、おつかれ」



珍しく優しい隆也に内心驚きながら、広い背中に顔を埋めて心の充電を開始する。お風呂は入ったみたいでいい匂いがする。…ちょっと変態だ私。



「はぁ…好き」
「んな溜息つきながら言うなよ」
「えっ、口から出てた?」
「無意識かよ」



笑いながらくるりと体を回転させて私と向き合うと、広くて少しゴツゴツした胸板が私の顔面いっぱいに広がった。大きくてこれまたゴツゴツした手のひらが私の頭をすっぽり包み優しく撫でてくれる。頭のてっぺんから、隆也を感じられてとてつもない幸福感を得ていた。



「ねぇ、隆也」
「なんだ?」
「大好きだよ」
「俺も」
「好きって言ってよ」
「今返事しただろ」
「そうじゃなくて、」



好きって言って欲しいの。

その言葉は隆也の口に塞がれて、外に飛び出すことは叶わなかった。口が離れてもおでこがくっついてる状態。キスしようと思えばすぐ出来ちゃうくらいの距離に隆也の顔が目の前いっぱいにある。



「…好きって言うのは恥ずかしがるのに、こういう事は平気でしちゃうんだから」
「手っ取り早くて良いだろ。ちゃんと伝われば」
「言葉で言って欲しい時だってあるのにー」



ちゃんと伝わってるけど、たまには言って欲しいじゃない。好きだって。自分ばかり言ってる気がして…

そんなことを考えている内に再び隆也に口を塞がれる。軽いキスの後、隆也の口が私の耳元へと移動して、



「愛してる」



と、少し低い声が耳の中へ飛び込んできた。
あまりにびっくりして、思わず耳を塞いでしまった。そんな様子を見た隆也は何事も無かったかのように、笑い出す。



「何してんだよ」
「えっと…逃げないように…」
「はあ?意味わかんねーこと言ってねーで早くメシ食おうぜ」
「う、うん」



確かに自分でも何を言っているのか分からない。分からないけどとんでもないことを言われたことだけは、分かる。

ホント、好きだけ頑なに言わないでこんなこと言えちゃう隆也が訳わかんない。しかも言った本人は何食わぬ顔してご飯の準備を進めてるし…



「なに茹でダコみたいに顔真っ赤にして突っ立ってんだよ。食っちまうぞ」
「み、見ないで!」



恥ずかしくなって荷物を持って寝室へ逃げ込む。部屋着に着替えて、リビングへ向かう準備をする。

谷にいたはずの今日1日だったのに、気付いたら山の頂上にでもいるみたいな。

姿見に映った自分の顔を見て、なんと幸せそうなニヤけた顔をしていることか。ほっぺをムニムニしながら隆也の待つリビングへと向かったのだった。



優しい夜には抱擁を



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