鬼の話
悠々たる足取りで八李の前に立った久賀は、次いでその柳眉を寄せ眼前の男を見下ろした。
紫暗の着流しから覗く病的なまでに白く細い足が、岩肌をなぞって地面に落ちる。湿った土を弄ぶ爪先は酷く汚らしく、久賀の眉間に皺を刻ませた。過去、黒曜石を思わせた黒い髪はじとりと濡れて、かさついた肌に貼りついている。艶やかさなどまるでない。言うなれば、それは末期。始まりより終わりの色に近い。腐臭と死臭が八李を包んでいる。
「その格好はなんだ」
「なんだ、久賀かあ」
誰かと思ったなどと嘯いた八李は、色のない唇で小さく笑った。骨張った指が、懐から取り出した煙管を挟み唇に運ぶ。
「捜したぞ。まさか、こんな所に居るとはな」
「一体何の用?」
「何の?それがわからないほどいかれちまったのか」
ひくりと久賀が口角を震わせる。それを一瞥した八李は、わずかの動揺も見せずに頭を振った。
「あー…久賀は変わんないねえ。その堅物加減、ちょっとは柔らかくなったかと思ったのに」
「百余年もこんなとこに封じられている腰抜けに言われたくはない」
「へえ…そんなに経ったんだ」
硬い靴底が八李の腰掛ける大岩を蹴りつける。幾年の間に風化したそれは、久賀の与えた衝撃に、脆く破片を落とした。
「鷺宮の人間に簡単に騙されやがって」
「……それは言わない約束だろ」
切なげに零れた吐息が紫煙に染まる。ふいと逸らされた双眸が、暗い色に隠れるのを久賀は見逃さなかった。それと同時に八李が未だ、あの出来事を忘れられないでいるのだと思い知らされる。
金と黒檀で誂えられた煙管が、八李の指で弄ばれる。紫煙の独特な香は、あの人間が纏っていたものと酷似していて腹が立つ。今すぐにそれを取り上げて、破壊してしまいたい衝動に駆られるが、八李はそれを望んでいないだろう。
「…壱矢はどうしてる?」
「相変わらず、穏健派の総括だ。童子の信頼も厚い」
「それは何よりだ。以前より、過激派連中と対立することだけは避けたいと、童子は仰っていたからな」
「それもぎりぎりの均衡だ。茨木童子と酒呑童子が和解することなど有り得ない」
「解りきったことだ。今さら騒ぐことでもないだろう」
火と水が相容れることがないように、あの頭領二人が相容れることなど到底考えられない。幾百年経った今もおそらく、変わることはないだろう。
再度、煙管を持ち上げた八李だったが、久賀の声にその手が止まる。
「五郷が死んだ」
「……なぜ?」
「過激派の連中と揉めたようだ。鬼狩り共に売られた」
下らない争いだったように思う。ただ、その理由を詳しく知りたいとも思わなかった。五郷は殺された。その事実だけが久賀の知る全てだ。
八李の表情が歪む。舌打ちと共に、吐き出された言葉は苦々しく歪んでいた。
「学習しない奴らだ、そうやって今まで何人の同胞を殺した?自らの首を絞めることにしかならないと、何故わからない」
明らかな怒りを含んだ双眸が久賀に向けられる。久賀にとってはそれすらも鬱陶しい。
八李は、自分とは対極にある。同胞が人間が。童子が。まるで全てが一つの事象であると。他者と自身の間に隔たりを置こうとしない。何に寄り添うこともしない久賀とは相容れない。不得手なのだ。根本的な部分から、思考の全てが違う。
だがしかし、今は八李の存在が必要だった。
「五郷の後釜に七浦が決まった」
「七浦?知らねぇな」
「現過激派の筆頭だよ」
「中立が暗黙の掟だった四天王に過激派だ?何考えてやがる」
「壱矢も穏健派だろう」
「あいつは茨木童子さえ居ればどっちだって構わない奴だ」
だからこそ、恒久的に中立でなければならない四天王に相応しかったのだ。五郷にしても、どちらの派閥にも属さないからこそ、その地位にあった。酒呑童子と茨木童子。その二人が相容れないように、各派閥が交わることはない。故に二つの派閥をとりなすこと、それがどれほど重要か。それは無関心を着た久賀にでもわかることだ。
「八李、戻って来い」
「今さらか?」
「四天王の席はお前のままだ」
「俺が出て、何が変わるわけでもないだろう」
「鷺宮に恨みがないわけではないだろう」
百余年も湿地の奥深くに封じられ、尊厳も意志も無為に、想いすら切り捨てられた。
「恨みは風化するか。この岩のように風化するものか」
「さあね、」
「結界は疾うに消えたのだろう。それでもここに居座る理由は鷺宮の約束とやらか」
「お前には関係ないよ。俺が必要か不要か、それは頭領が決めることだ」
吐き出した紫煙が久賀の体にまとわりつく。目を細め、酷く煩わしそうにその香を払った。
「ならばなおのこと。鬼一族が頭領の勅命ととれ」
「隠遁させてほしかったよ」
「それにはまだ早いだろう」
立ち上がった八李の背後で、岩が音を立てて崩れた。今までそこにあったことが嘘のように残骸となったその岩を、八李は名残惜しいとでもいうように見下ろしている。その手が、古びた札を懐に仕舞ったが、久賀は何も言わずに踵を返した。






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