涙の色
鉄柵の向こうには自由な世界が広がっている。どこまでも飛べる、自由で果てしない世界だ。
かつて、酷く深い爪痕を残した世界はいつの間にかその様相を翻した。傷痕が消えることなどある筈もなかったが、瘡蓋に覆われた傷が再生していくむずがゆさがあった。痛みが和らぎ、世界と自身の価値観に気付いた時、そこに顔を覗かせたのはどこまでも幼い愛おしい世界。
それに気付かされたのは、紛れもなく彼という人が在ったからだ。
重く濡れた音を含んで、両腕を拘束する手錠が擦れた。冷たい壁に後頭を押し付け、頭上の正方形を見上げる。真後ろにあるそれは、首が痛くなるほど上向かなければ姿を捉えることは出来なかったが、そんなことは全くと言っていいほど構わなかった。
正方形の穴から流れこむ外気の暖かさに息が詰まりそうだ。
舌を噛まないようにと、口に押し込められた鉄のボール越しに熱を持った吐息が漏れた。
「酷い有り様だな」
正面から聞こえた声に、晒していた喉がひくりと震えた。ゆるゆると顔を向ければ、顰めっ面の片瀬が佇んでいる。もとより声を出すことすら出来ない佐倉は、その切れ長の双眸をじぃと見つめ返すより成す術がなかった。
不意に、溜め息を漏らした片瀬が徐に鉄柵の境界からこちら側に身を潜らせた。そして、目前へと膝を付き、躊躇する間もなく口枷のベルトを外す。引かれるままにボールを吐き出せば、唇の端から血の色をした唾液が顎を伝い床に落ちた。
「……処置が、決まったんですか」
数日ぶりに出した声は、掠れて聞き取り難いものだったが、片瀬は黙って頷くと佐倉の唇端を親指で拭った。
目を見開いて固まった佐倉に、小さく苦笑して片瀬はその場に腰を下ろす。
「明日、本人出席の上で会議がある。そこでお前が語る全てで処置は決まる」
「そ、うですか…」
「怖いか」
俯いた佐倉に、片瀬が問う。
さあ、と笑って佐倉は繋がれた両手を見下ろした。
「どうでしょうね……ただ、今は少し後悔しています」
「何に、」
「僕のしてきたこと全てに」
あの頃からこの手は何一つ掴めなかった。伸ばしても届かない背中。そのかわり、日に日に赤く染まる手の平が生きている事を知らしめた。
くだらないと笑い飛ばすには、重すぎる。
「生きるってことは後悔の積み重ねさ」
「それは、片瀬さんの持論?」
「受け売り。積み重ねた後悔を数えて笑うんだとよ」
わからねえだろ、と片瀬は破顔した。
「片瀬さんには、似合いませんね」
「俺は生まれてこの方、後悔なんてしたことねえからな」
「…貴方らしい」
呟いてから、唇を噛み締めた。
もう一人、こんな人を知っている。
「七梁さんは、どうなりましたか」
「左胸に銃弾を受け、大量失血。心停止だ」
「死んだんですか、やっぱり」
当然のことだ。あの至近距離で鉄の塊に射抜かれたのだ。いくら七梁亮であろうと、生死まで手玉にすることは出来ない。必然的に近づく死の足音を止めることは不可能だ。
そして、それを与えたのは誰であろう佐倉自身だった。
「泣いてんのか」
「まさか。そんな筈がない」
涙は全て使いきった。枯れてしまった涙腺は、もう二度とこの双眸から感情を流すことはない。
そう、ましてや自身の命を繋ぐため、利用した相手に感情を奪われるなど有りはしない。
「そうか、」
「ええ。片瀬隊長、そろそろお戻りにならなくてよろしいのですか」
「……そうだな。佐倉、明日が最後だ。相応の覚悟をしておけよ」
鉄柵から出て行く後ろ姿に、無意識に言葉が落ちた。
「七梁さん、」
「ん?」
「七梁さんに会うことは」
「今は無理だ」
だが、直に会えると言い残して錠を落とした片瀬を見送り、息を吐く。
それでは一体いつ会えるのか。聞くまでもない。
「……あの世ってことか、」
蘇るのは、彼の顔ばかりだ。太陽より眩しい金色は、何よりも傲岸不遜で優しかった。
「―――ッ、」
身体の奥底から溢れ出すこの感情を何というのか、佐倉にはわからなかった。










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