赤と黒の残像
「よう、元気してたか?」

にかりと笑顔を見せて眼前に佇む男に木島は呆然と目を見開いた。飲みかけの缶ビールが胸元を濡らして、臍まで垂れる。不快なことこの上なかったが、そんなことに構っていられるほど木島は冷静でなかった。
「…い、とう…?」
「おお!何だよ、その顔。てかビール零れてんぞ」
勝手に家の中に上がり込んだ伊東は、物珍しそうに周囲を見渡しながら木島の横を通り過ぎる。その姿を目で追って、木島はふらふらとその後に続いた。
何せこの男、伊東春近は木島の友人であり、五年前二十歳の誕生日が命日になった男である。
春先の肌寒い時期にもかかわらず、半袖のシャツとジーンズのみのラフな伊東の恰好に、それが伊東の部屋着だったことを思い出す。彼はこの姿で死んだのだ。
「んー、二十五歳独身一人暮らしの家にしちゃ片付いてんじゃん。桃子ちゃんとはまだ続いてんの?」
「……お前が死んですぐに別れた」
「マジか!?勿体ねぇでやんの。あんな良い子そういないぞ」
けらけらと笑う姿に懐かしさが込み上げる。が、しかしそんな悠長な感傷に浸っている場合ではなかった。
「…春近、お前何してんだ」
「何って?わざわざあの世からお前に会いに来てやったんだよ」
嬉しいだろ?と問われて思わず頷きそうになった。
否、違う。そうじゃないだろうと自分を叱咤して木島は両手に力を込めた。手の中でビールの缶が音を立てて潰れるのを感じる。残っていた中身が泡とともに床に垂れた。
「そうじゃねぇだろ。まさか、今更成仏出来ませんでしたとか言うんじゃないだろうな?散々俺達を引っ掻き回しといて、勝手に消えちまったお前が、今更会いに来ただ?巫山戯るのも大概にしろ、もう遅いんだよ」
眼前の伊東が大きく目を見開いて、その身体が微かに震えるのを確かに見た。
違う。違うんだ春近。俺は、お前にこんなことが言いたい訳じゃないんだ。
「俺達がどれだけ大変だったか、お前は知らないだろ?塚原が路一が、どれだけ傷付いたか知らないだろ!」
「梅、」
「何で、今更会いに来んだよ。やっと、やっと忘れ始めてたんだ…だから、俺は、」
「……死んじゃやだよ。梅」
ぽつりと吐き出された言葉に、木島は息を飲んだ。潰れた缶が音を立てて床に転がる。
何も言えず、無意味な呼吸を繰り返す木島に伊東は小さく微笑んだ。
その足元のローテーブルに大量の白いタブレットが散らばっている。
「こんなもんを飲んでもね、苦しいのは変わんないよ。俺もそうだった」
「……はる、」
「俺はね、梅。お前に死んでほしくないから会いに来たんだ」
「同じ事して逝ったやつに言われたくない」
「だからこそだろ、だってさお前が居なくなったら誰が生野の魔の手から千景達を守るんだ?」
にやりと笑んだ伊東の口から出た変態性欲魔神の名に、一瞬頬が緩みそうになる。まるであの頃に戻ったかのようで、酷く懐かしい。けれど、ここで絆されてはいけないと、木島は伊東を見据えた。
「ちゃかすな」
「本当のことだろ」
「自分の身くらい自分で守れんだろ。あいつらだってガキじゃねんだ。齢十九にもなって泣き喚くような奴らじゃねぇよ」
「自分は守れても他人は守れるかな。ほら、なんてったっけ新しく入った子」
「灰谷、」
「そうそう!十六だっけ?もう完璧生野くんの餌食だよね彼」
可愛い顔してるしなどとさらりと言ってのける伊東は、流石幽霊と言うべきなのだろう。随分と内部事情に精通しているようだ。この分では、この五年間の内に起こったあれこれを把握しているに違いない。
「それで、無責任に放置しちゃうんだ、梅は」
「ッ、るせぇよ!」
「なあ、梅。一番楽に死ねる方法を教えてやるよ」
唐突に紡がれた台詞に木島が不審に満ちた目を向けると、ガチャリと聞き慣れた音が鼓膜を刺激した。
大口径のリボルバーが銃口をこちらに向けている。細い片手で軽々とそれを持ち上げる伊東は、やはり死んでも諜報部隊最年少のエースだった。
「これで頭をぶち抜けば、痛みも何も感じないであの世に逝けるよ。知ってるだろ梅」
知っているさ。毎日そうやって今を生きている。言われるまでもなく、それの殺傷威力は証明済みだ。
「知ってんのにこれを使わないってことはさ、梅、お前ほんとは死にたくないんだよ。だから睡眠薬山ほどかっ込んで、酒飲んで」
「そういうお前は、どうなんだよ。莫迦みたいに薬飲んで酒に酔って、それで死んだお前は何なんだよ!」
叫んだ声は無様に掠れて裏返っていたけれど、木島も伊東も気にしてはいない。
端から見れば、何とも非現実的な光景だろうが、木島にとって死者である伊東と口を利いていることが不思議であるとも現実離れしているとも思わなかった。
「……俺も、梅と同じだよ。決心がつかないから博打にでた。死ぬも生きるも運次第だって、そう思えば多少覚悟できるだろって。思ってたのが間違いだった」
「ど、ういう…?」
「結局、俺達には安息の地なんてどこにもないってことだよ」
悲しげに笑った伊東の足首に黒光りする鎖と枷が見えた。何故気がつかなかったのか不思議なほど長い鎖が木島の横を通り玄関へと続いている。
鎖から伊東へゆっくりと顔を戻せば、眼前に迫るリボルバーの銃口が見えた。
「はるちか、」
「死なないで。俺が言えた義理じゃないけど、それでも、梅には死んでほしくない」
「お前、何で」
「死んだこと、後悔はしてない。でも、梅には俺みたいにずっと繋がれてほしくない」






じゃあ何故お前は死んだのかと問うことも出来ぬまま、濡れて乾いた頬に苦笑が浮かんだ。
アルコールの匂いに咽せながら部屋を見渡せば、彼の姿は何処にも見当たらず床の上に散らばったタブレットだけが昨夜のまま朝日に照らされている。


(それが自身の作り出した幻だとして。本当は、死など)



戻る


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -