やさしいうたごえ

「跡部…、」


心地いいテノールが鼓膜を揺らす。毎朝この声が俺のためだけに使われるのが好きだった。そのくらい、好きな声。衣擦れの音を小さく響かせながらうった寝返り、横を向いて投げ出した腕に触れるぬくもりが愛しかった。


「起きたか…?」

「ンー…、」


いくつになっても朝は寝ていたい。時間の許される限り。ぐずる俺に困ったこいつは、左手で寝癖のついた俺の髪を直すように撫でた。その手が気持ちよくてもう少し寝ていたくなる。


「間に合わなくなるぞ、」

「やすむ。」

「駄目だ。」

「ばぁかやろー、俺は社長だぞ…!」


髪を耳にかけられて、現れた耳にキス。それから額、瞼、鼻先。最後にくちびるに落とされてしまってはこれ以上駄々をこねるとかわいそうに思えてしまうから。しぶしぶ目を開いて、しっかりと視界におさめた手塚は、実にしあわせそうな顔をしていた。


「いいことでもあったのか?」

「いや、…ああ、あるにはある。」

「そうか…、」


恋人のしあわせが自分のしあわせだと、この言葉は実際的を射ていると思う。しあわせそうに綻ぶ仏頂面がかわいらしい。朝の微睡みの中にする会話を、俺はなかなか気に入っている。それは手塚も同じことで少しだけ、本当に少しだけ早く俺を起こす。仕事に支障を来さないように、それでもこの時間を取れるようにと。


「そろそろ起きる、」

「ああ、そうしてくれ。」


そうやって一足先にベッドから起き上がった手塚の細い腰に腕を回した。また痩せたか。


「平社員はしんどいのか?」

「ああ、まあな。」

「ふふ、はやく俺の所まで来いよ。」


回した腕に重ねられた手は暖かい。広い背中に鼻先をうずめて深い呼吸をする。また夜まで会えないんだ、手塚を補給しておかないと。


「また遅くなるなら連絡くらいしろよ、」

「そっくりそのままおまえに返させてもらおうか。」

「……言うじゃねえの。」


お互い忙しい身ではある。
出社するギリギリまでいちゃいちゃして扉の向こうへ出ればパリッとした働く男。同じ場所に出勤する、というのに手塚は徒歩、俺は黒塗りの車。この差に当初は俺もむくれていたが今では渋々、渋々受け入れてやった。





「これで最後、か。」


ぱさり、と机に仕上がった書類を置いて部屋を出た。後の細かい処理は命じなくても誰かしらが済ますだろう。手塚のつける腕時計の、同じブランドの違う銘柄、に目をやる。何時もより少しばかり遅い時間を指しているそれを見てため息をついた。遅くなるなら連絡しろよ、と言ったのは紛れない自分だ。駐車場で俺を待つ車に足を運ばせる。手塚からの連絡は何もなかった。それはつまり、


「おかえり。」

「た、だいま?」


飴色の扉を開けたそこに、手塚はいた。早いはなしがお出迎えである。予想していた少し怒ったような表情ではなく、どことなく嬉しそうな表情に面食らった。あからさまに困惑した俺の表情に気づいてないのか手塚は、遅かったな夜は食べたのか、と続けた。


「い、や…まだ、」

「なら温め直すからはやく着替えてこい。」


促されるまま着替えてダイニングテーブルにつく。出てきた料理は、手塚のつくる料理の中で俺が一番好きなものだった。


「……なんかいいことでもあったのか?」


朝と同じセリフを、これまた嬉しそうな鉄仮面にぶつける。


「朝も言っていたが、そういう風に見えるのか?」

「……ああ、何て言うか…。あれだ、花が飛んでるみたいだ。」

「そうか…。」


おい。自己完結をするな。自分の中で終わらせるな。そう思い向かいに座った手塚の脛を爪先でつついた。やめろ、と口では注意しておいてもやめるつもりはない。


「俺は、どうして、おまえがしあわせそうなのか、知りてえの。」


紡いだ言葉と足のリズムをあわせて、手塚を見た。一瞬だけ瞳が大きくなったがまた綻んでいく。なんだこいつおめでたいやつだな。


「…跡部と、」

「俺と?」

「こうして夫婦みたいに過ごす時間を噛み締めていただけだ。」

「は、」


古典的に、持っていた箸を落とした。重力に従ってかつんかつんと二つの音がする。だめだ、手塚の顔をみることができない。


「朝、同じベッドで起きて同じ家を出て、帰ってくればおまえのにおいがして。…俺はしあわせだ。」

「………。」

「跡部?どうした、震えているぞ?」

「うるせぇ!」


なんだこいつ。なんだこいつ恥ずかしいやつ!そりゃ俺だってその、今の暮らしに満足しているし、…手塚がいないとか考えられないくらいになってしまった。

ああもう。


「……指輪が欲しい。」

「跡部…!」

「時計じゃもう足りない。待ってる。」

「ああ、今度買いに行こう。」


ここはベタに、給料三ヶ月分の指輪かな。と考えを巡らす。嬉しそうに笑う手塚は尻尾を振って全身で喜びを表現する犬みたいだ。小さく笑う俺を目敏く見つける手塚に手を伸ばして、更々の髪に指を通す。


「左手の、薬指にお揃いの指輪がいいな。」

「ああ、」

「給料三ヶ月分か、とも思ったけど、シンプルなやつで構わない。」

「ダイヤモンドは不要か?」

「ぷっ…、不要だよ、手塚。」


こんな言葉の応酬が堪らなくしあわせで、きっと今の俺は、手塚と同じような顔して笑ってるんだろうな。




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