矢のように過ぎ去る毎日。何かに追われ、身を翻しては追いかけられ。そんな単調な繰り返しの日々にひとつの興味がうまれた。
猫が、いたんだ。真っ黒な毛並みの綺麗な、金色の目をした猫。木に登ってそのまま降りられなくなったのか、下を見下ろし不安げに鳴いていた。会社を抜け出した午後2時28分、天気もよくて散歩にはちょうどいい気温と時間帯だった。
辺りを見渡して人がいないかを確認。一応社長、という肩書きをもった人間なものでな、と誰に言い訳をするでもなく胸の中でひとり思う。そうして猫を見上げて
「今助けてやるからな、」
と木に足をかけた。
◇
腕の中でごろごろと喉を鳴らして甘える黒猫。無事救出することができてよかったのだがいかんせん、払った代償が大きすぎた。枝に引っ掻けて破れてしまったスーツの袖。葉っぱと黒猫の毛がくっついてよれよれになってしまったスーツは割と気に入っていたのに。どうしたものかと溜め息をついた。
「自分何しとん。」
「あ?」
声のしたほうへ目をやると、俺より少しだけ背の高い、俺と同じくらいの男前がなにか言いたげななんとも言えない微妙な表情でこちらを見ていた。
「こいつを助けてたんだにゃあ、」
「………。」
失敗した。猫の前足をもって手招くように動かし、事情を説明しようとしただけなんだ。ついでに言えばこの空気を払拭したかった。黒猫は相変わらずごろごろ言ってる。
「……ついてきいや。」
「あ、」
はあ、とつかれた溜め息に少々イラっとしたがまあなんだ、黒猫と一緒に男の後をついていった。
◇
からんからんと鐘の音と共に開かれたドア。男の後ろからつられて入れば、腕の中の黒猫は一目散に日の当たるソファに飛び乗り丸くなってしまった。
「あっ、俺のお気に入りやのに、」
「おまえ、仕立屋か何かか?」
ぐるりと見回した店内は俺の趣味によくあっている。点在しているマネキンが着ているスーツも然りだ。そんなわかりやすいヒントから答えを導くなど造作もない。さっき会ってから店に入った今まで、一度もこちらを振り向かなかった男の背中に問いかけた。
「…まあ、」
「へえ、センスいいじゃねえの。デザインも、素材も。」
「…ああ、うん。」
なんだよその歯切れ悪い返事。猫はその黒い毛に日を当てて眠っている。気に入らない面が多すぎて、この場からはやく離れたい。背中を見る。なにやら店の棚を引っ掻きまわしてはスーツの雨を降らせている。おいおい売り物じゃねえのか、と心配になりながら猫をもう一度抱えあげた。あ、あいつと猫、なんか似てる。
「これ、着て。」
「は?」
「これ、俺の最高傑作、やしまだどこにも出しとらんレア物。やから着て。」
ダークグレイのピンストライプが上品なスーツ、それによく合うシャツとネクタイをぐいぐいと押し付けられる。その目はどこか揺れていて、なんとなくだがわかった。
「おまえ、人間不信か。」
「ちゃうし、…ただ嫌いなだけ。」
泳いだ目は肯定の合図。
「人間は、汚いしおもろないし。けど、あんたはちゃうって思ったんや、」
「へえ?」
「…直感、やけど。ああもうはよ着替えや。」
照れたのか、気まずいのか。髪をがしがしとかき混ぜ、猫を引き取られスーツを渡された。バサバサと、破れたスーツを脱ぎ捨てる。猫を抱えたままぼーっとこっちを凝視する男にまた少し居心地の悪さを覚えた。
「見るなよ、」
「嫌や。」
「ああん?」
「決めた。」
短い言葉のラリー。どうも人間不信というか人嫌いというのは嘘臭いように思えるのは俺だけか。そいつはしっかり抱いていた猫の前足を手招くように動かして、
「俺おまえの専属になるわ。」
「は?」
「おまえ綺麗な体しとるし、もう他のやつに作れって催促されるの嫌やし。」
勝手にのたまうこいつはさっさと店の外に出て、表にかかっていたopenの札をcloseに裏返していた。
ロンヌさんへ