桜流し | ナノ
---あの日、世界の音が止まってしまった。


サワサワと、桜が鳴く。風に揺れて儚く優しく。
一瞬強く吹いた風に花びらがブワリと舞った。まるで雪のように。
薄いピンクの花びらが幾枚もヒラヒラと落ちて行く様を何ともなく見つめていた。
楽しそうに笑ったあの顔がふと蘇る。桜の花に溶けるように透明だったあの笑顔。
それを思い出しながら、三蔵は煙草を灰にしていた。
常に銃を握っていた手は皺を増し、比例して銃のために出来たタコは薄くなっていた。
かつて眩い金色だった髪も、幾分か輝きが薄れている。
その髪に花びらが優しく降り注ぐ。
幾つ年を重ねてもきっと辞める事はないだろうと思っていたが、ついに煙草を生涯の伴としてしまった。身体が慣れていた、辞める気がなかったといえばそれまでだが、三蔵はあえて煙草を辞めなかった。否、自分を変えたくなかった。彼が最後に見た自分の姿を保っておきたかった。

−−−悟空。

名前を口に出すだけで抉られるような痛みが胸に走った。時間が傷を癒してくれるなんて誰が言ったのだろう。時間は膨大に流れたのに、傷は鮮やかに痛みを伝えてくる。まるで昨日の事のように。
悟空が去った日から、今までずっと。




もう何十年も前、厳しい旅路の果てに牛魔王の討伐を終えた。
満身創痍という言葉がぴったりだった4人は東へと帰路を急いだ。思う所は各々あったが、ついにこの長い旅が終わる。皆心は晴れやかだった。その最中だった。
ーーー悟空が大地母神の元へ召される事になった。逗留先の寺院で三仏神に謁見した際に告げられたのだ。
命を奪うのではない。三仏神は宥めるように言った。
悟空の生みの親である大地母神の神殿に上がるというだけだ。天界の一角にあるというその居城に上がれば、人間の身である三蔵とは当然ながらもう会うことは疎か二度と目にかかることは無いだろうとの事だった。
それを受けた三蔵は一言も発することなく謁見の場を後にした。


常に共にいることが当たり前になっていた。彼は自分の半身だとも思う。何しろ岩牢から連れ出したのは自分だ。彼の声なき声を聞き分けることが出来るのも自分だけなのだ。立派な半身ではないか。
引き裂かれるなど冗談じゃない。もう二度と会えなくなるなど考えられなかった。だからと言って引き留める事なんて微塵も考えず、結果として三蔵は一人機嫌を急降下させていた。
悟空が居なくなる前日、三蔵のもとに悟空はいた。普段と変わらず腹が減ったと喚いていた気がする。なにを喋っていたのか正直耳になど入ってこなかった。

「三蔵、」
「なんだ」
「外の桜が綺麗だから見にいかね?」

とてもじゃないが桜なんか見る気分じゃない。断ろうとしたそのとき、始めて三蔵は彼の顔を正面から見た事に気付いた。
悟空は笑っていた。全てを悟った顔で、寂しさも苦しさも何もかも飲み込んだような顔で、それでも笑っていた。

「…いってやる。案内しろ」
「サンキュ」

二人で外に出る。寺院は水の中のように静まりかえっていた。本堂のそばを通り抜けると、ふわりふわりと桜の花びらが風に乗って運ばれてきた。
三蔵は不機嫌を隠さずに悟空の数歩後を続く。
不意に悟空の後ろ髪が伸び始めていた事に気付いた。一体いつから伸ばしていたのだろう。まだ彼が幼なかった頃、それを結うのは三蔵の役割だった。
一度何かに気付くと次から次へと気になる。少し背が伸びた気がする。手も、以前よりは少し大きくゴツゴツとしていた。
ーーーーこの胸に湧く感情は何なのだろう。

小さく舌打ちをして徐に切り出した。
「…いつから知っていた」
「本当はね、牛魔王倒した頃から。夢の中に出てくんの。還って来い。迎えに行くからって言ってやがんの。可笑しいよな」
「何が」
「俺の帰るところは三蔵じゃん。大地母神なんか知らない」

言葉に詰まる。じっと悟空の後ろ頭を見つめた。

「三蔵しかいらないんだ」

悟空がゆっくりと振り返り、そして真っ直ぐに三蔵を見つめた。言葉以上に強い意思を持った黄金が煌めく。
途端に、暖かく苦く重いものが三蔵の胸にぶわりと広がった。掻き毟られるような胸の痛み。こんな感情を三蔵は知らない。知る由もなかったのだ。

「…お前はどうする」

腹の底からやっと声を絞り出した。自分でも意外なほど普段と変わらない声色を作れたと思う。
彼はついにそれに答えなかった。
少し俯いて三蔵へとそっと近付き、ゆっくりとその胸へ茶色の頭を預けた。
三蔵も何も言わなかった。その代わりに悟空の背中に手を回した。
真近で見た彼は、旅の途中の悟空でも寺院で泥だらけになっていた悟空でもなかった。いつの間にこんな表情をするようになったのだろう。彼の背は微かに震えていた。
やがて、どちらともなく体を離したとき、頭上の桜が雪の様に降り注いだ。
暫くそれを眺め、ふと、目線が交わった。
悟空は三蔵に笑いかけた。桜にとけてしまいそうな、透明な笑顔だった。
胸が痛んだ。どうしようもなく。
その痛みに苛まれ、衝動のままに彼に口付けた。触れた唇の上から悟空が息を飲んだのが分かる。これ以上ないくらい近付いたのだ。

こんなにも許容する相手なんて、後にも先にも彼だけに違いない。重ねた唇の柔らかさに驚きながら、三蔵はごちた。
なぜそうしたかは分からない。ただ、最初から決められていたかのように、三蔵と悟空は唇で触れ合った。確かめあう手段の一つだった。抱擁よりも濃くお互いの存在を知るための。そんな接吻だった。
その時間はたった僅かな筈なのに、永遠に感じられた。
漸く離れたときに悟空はまた笑った。今度こそ鮮やかな、三蔵の知っているいつもの笑顔だった。もう二度と会えなくなる等信じられないような笑顔だった。



その次の日、悟空は三蔵の前から姿を消した。桜だけが静かに降り続いていた。

実のところ、悟空が本当に大地母神の元へ還ったのか、それとも独り何処かに旅立ったのかは三蔵にも分からなかった。それ以来三蔵は三仏神との謁見は全て断っていたのだ。知り得るはずもなかった。


世界から音が消えた。
あんなに喧しく煩わしいと思っていたのに、いざ無くなると、それが占めていた場所の大きさに改めて吃驚した。悟空がいなくなったことで空いたその穴は深く暗くがらんどうだった。
何をしていてもどこかで悟空を探していた。
柔らかい茶色の髪を、すっと伸びた手足を、輝く黄金の目を。
そうして幾年が過ぎて、死期を悟った三蔵は、彼と最後に過ごした寺院の庭に赴いた。
静かな庭にはあの日と同じ、桜が咲き誇っている。雪のように花びらが降り続いている。
懐かしさに目を細めて煙草を取り出した。
桜に紫煙が燻る。薄い青空と、桜色と。あの日とちっとも変わらない絵画のようなそれを暫く堪能した。

ふと、人の気配を感じた。
曲がりなりにも格式高い寺だ。庭で煙草をふかしているところなど見咎められたら面倒だ…そう思いながら一番大きな桜に目をやると、予想通り誰かが立っていた。
寺の坊主か丁稚か。たがその予想は見事に外れていた。
見覚えのある、茶色の長い髪を靡かせた、あれは。

「……、」

ドクリと心臓が高鳴る。久しく忘れていた、全身の細胞が湧き立つような感覚ーーーーー。
焦がれて焦がれて胸が潰れそうだった。数え切れないくらい夢に見た。
近づいた瞬間にかき消えてしまわないだろうか。僅かに信じられず、ふらつく足取りで彼の元へ進んだ。
変わらぬ目。変わらぬ髪。変わらぬ手足。
そこには別れた日と寸分違わぬ悟空がいた。

「…、悟空」
「三蔵」
ただいま。唇の動きだけで告げられた。
堪らなくなってその身体を抱き寄せる。しなやかな身体。あの日、初めて触れた頃と変わらぬ身体。
変わったのは自分だ。あの頃より随分力のこもらなくなった手。弱くなった身体。
抱き締めている筈なのに、何故かあやされているような。抱き寄せられているような、そんな心地がした。
暫くしてそっと彼の頬に手を伸ばす。綺麗な黄金が三蔵を映した。慈しむように掌にゆっくりと重ねられた手に、底知れない愛おしさが湧いた。

「三蔵、好きだよ」

漸く息ができる。音が聞こえる。
桜の降りしきる音だけ。
この時、この一瞬のため、悟空と再び巡り合うためだけに生きていた。強くそう思った。








その夜、年老いた最高僧が戻らないことを心配した僧侶が、満開の桜の下で花びらに抱かれるように蹲った彼を見つけた。
既に冷たくなっていた最高僧は、
とても穏やかな顔だった。






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