溺れるサカナ | ナノ
紡がれていく泡はとても綺麗だった。
まるで真珠のような円やかさ。
中に包まれた空気はそれなりの形状を保ちながら、水面までの距離をゆっくりと上昇していく。
まるで消えるのが名残惜しいと言わんばかりに。

淡く淡く。
ゆっくりと。

――――淡く。



【溺れるサカナ】




「魚は、ずっと海の中に居るの?」

不意に、悟空が顔を上げた。
続いて紡がれた言葉に家庭教師である八戒は柔らかく笑う。

「ええ、魚は生まれてから死ぬまでずっと海の中です。」

長い髪をそのままに床に座り込んで本を広げる悟空は、むぅっと顔をしかめた。
此処、慶雲院では、このようなやり取りが日常化しつつある。
悟能だった彼が「八戒」と改名してから、すでに数ヶ月が経った。
三蔵が頼んだのか、或いは八戒が自主的にか…兎に角、小さな大地色の子供に、簡単な計算や字の読み書き等を教えるようになった。

日課の如く寺院に訪れた八戒が、今日は海の生物を教えましょう、と持参した生物図鑑を、悟空はこれ以上無いくらいに真摯に見つめた。

悟空は新しい知識には貪欲だ。
特に、食べ物が絡むとその金晴眼はすこぶる輝きを増す。

こっちの魚は食べれるんですよ、と八戒が告げれば食い入るように図鑑を見つめた。


「……なぁ、何で魚は海の中に住んでるんだ?息はどうやってんだろ?」

くいくいと自分の服の裾を引っ張る悟空に、八戒はゆっくりと笑いかける。

「息は僕達水上生物と違って鰓という部分でするんですよ。
どうして海の中に住んでいるかは分かりません。
ただ、全ての生物は海で生まれたとの見方があります。」
「…俺も?」
「それは…分かりませんが、恐らくは。」

微笑を湛える八戒を見、悟空は深い溜め息を吐いて俯く。
それに少し眼を細めた八戒は、悟空に向き直るとその顔を覗き込んだ。

「…悟空?」
「きっと、俺は魚だったんだ」

俯いたまま悟空はゆっくりと呟いた。
突拍子もない悟空の言葉に少し苦笑しながらも、八戒は

「それはまた…何故ですか?」
と尋ねる。
答えるより早く図鑑の魚を指差すと、悟空は真っ直ぐに八戒を見つめた。

「俺とおんなじ。金の眼してる」

「そうですね、ですが…」
「きっと、溺れたんだ。…魚。だって、俺は水の中で息出来ないから」

金眼鯛を指差しながら、取り留めのない事を呟き、悟空は再び溜め息を吐きだした。
それを見、八戒はゆっくりと首を振る。

「悟空は、…何かに溺れているんですか?」

ぴくり、と悟空は身を固くした。
やはりか…と息を詰めた八戒は小さく苦笑した。

悟空の眼を見れば良く分かる。

ふと、眼をやった悟空の首筋に、八戒は赤い鬱血を見つけた。
それは悟空の白い肌に赤く赤く、鮮やかに浮き上がって…
八戒は、知らずに三蔵の狂気の鎖を垣間見た気がした。

「…溺れるのって、…苦しいよな。」

ふ、と眼を逸らした悟空は、小さく呟いた。
それに八戒は僅かに口唇をかみしめた。
いつも以上に悟空が小さく見えた気がしたし、いつも以上に大人びて見えた。

窓から吹き込む風に、図鑑のページがパラパラと舞う。

「息が…、詰まりそうになるんだ…」
「え?」
「三蔵と居ると。苦しい…多分溺れる感じに似てるんだと思う。」
「…どんな感じなんですか?」

静かに言葉を紡ぐと、悟空は顔を上げた。
そのまま両手で空を二回掻き、まるで水面を目指すように立ち上がった。

「光が見える。だけど…苦しいんだ。」
そしてゆっくり手をおろし、八戒を見下ろした。
夢見るような金晴眼には、八戒を通り越して遥か彼方の水面を映しているように。

「…苦しいけど、とっても幸せ。」

儚く笑う悟空に、八戒は小さく微笑み返した。

「…そうですか。」
絡み付く水に手を取られても。
泳げなくても、沈んでも。


「…あ、三蔵。」


溺れた金晴眼の魚は、とても幸せ。

淡く淡く、水面へと上がる空気のように。
パチリと消えれば、瞼は上がる。
金晴眼に金糸を映して、溺れた魚は儚く笑んだ。




end




悟空の台詞があまりに女じみててびっくりでした。即刻修正しときました(笑)




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