花篭り 後編 | ナノ
「その手を離せ」
ピシャリと力強い言葉が響いた。男の手は雷に打たれたようにそのまま硬直し、悟空は言葉の主を仰ぎ見、破顔した。
「三蔵ッ…!」
「三蔵さま…」
同じ『三蔵』の名を呼ぶ声だったのに、その中に含まれる意味はまるで逆だった。一方は安堵のもので、もう一方は怯えたもの。
呼ばれた当事者の三蔵は、ついと目を細めてズカズカと部屋へ入る。そのまま彼は怯える僧を一蹴した。かなり痛そうな音がして悟空は顔を顰めた。内心いい気味だとも思う。僧はぐう、と濁った声を出し三蔵へと跪いた。
「おゆ、お許しください。三蔵さま。その妖怪が惑わしたのです。私は無実です」
「悟空が?テメェを誘うために窓や戸にびっしり自らの力を削ぐような札を貼ったと言うのか?」
三蔵は冷たく笑った。言葉に詰まった僧へ、さらに叱責する。
「大体この札がねぇとテメェみたいな愚図は悟空に触れることすら出来ねぇよな。恐れるか震えるかしか出来ないくせに、性欲だけはまともに蓄えやがって。消えろ。二度とその面見せるな」
一喝すると、僧は転がるように部屋を出て行った。僧の足音を遠くに聞きながら、静かになった部屋の中に響くのは三蔵の舌打ちだけだった。
悟空は立ち上がれなかった。札による力も勿論だったが、三蔵が駆けつけてくれたというその事実に体が震えていた。
ーーーたすけてくれた。
悟空の声なき声を聞いてくれるのは三蔵だけだ。それを聞いて、やって来てくれたに違いない。
仰向けになったまま三蔵を仰ぎ見た。薄暗い部屋の中なのに、三蔵の周りだけ光が射したように輝いて見えた。
…あの時と同じだ。微かに痛む頭の隅で悟空は思った。誰にも届かなかった声をただひとり聞いてくれて、そして差し伸べられた手。三蔵はまごうことなく光だ。じわりと喉の奥が熱くなった。
突然三蔵は苛立ったように乱暴に蹲り、悟空を助け起こした。悟空に触れる直前まで荒々しかったであろうその手のひらは、触れられた瞬間驚くほど優しかった。悟空は黙って甘受した。
「…大丈夫か?」
眩いひかり。悟空に注がれるひかりがそのまま人間へと具現化したような三蔵。いつもいつも、暗い場所から助け出してくれるひかり。
耳鳴りが酷かった。スルスルと深いところに意識が絡め取られていく。小さく「ひかり」と呟いて、悟空は目を閉じた。


ーーーー


深い闇の中にいた。檻に囚われて、光は届かなかった。
呼んで、呼んで、呼んで。でも呼べる名前も何もなくて。いつも泣いていた。叫んでいた。
そこに、ある日現れた。天空の雲を紡いだような白い衣、輝く光を集めたような金糸。
光が人間になったような、彼。

ーーーー三蔵!!

差し伸べられた手を取った。そしてそのまま彼へとしっかり抱きついた。これは、この光は自分のものだ。自分だけのものだ。
ぎゅっと法衣を握りしめると、悟空の指の間からじわりと黒い闇が滲んだ。
「…え?」
手のひらと言わず、腕、胸、足と、悟空が触れた部分から闇が染み出し、三蔵を染めていった。じわりじわりと広がり、今やその法衣は黒衣に変わり、彼の顎までも黒く染まった。
「…三蔵!三蔵!」
いくら呼んでも三蔵はピクリとも動かない。そうしている間にも頭の先からつま先まで、悟空から滲み出た闇で三蔵は真っ黒になった。そして次の瞬間、炭の塊のように頭がボロリと崩れ落ちた。
「嫌だ!!三蔵ッ!!」

「…ぅ、悟空…悟空!!」
ハッと目を開けると、三蔵の顔が真近にあった。どこも黒く染まっていない。悟空の大好きな綺麗な顔だった。そしてその顔は滅多にない表情を浮かべていた。心配と焦燥が入り混じったような表情。そんな三蔵を見るのは初めてだった。
悟空はゆっくりと起き上がる。
「…さんぞ?」
「お前、すげえ叫んでたぞ。大丈夫か?」
「…あ、ゴメン。なんか夢見て…」
三蔵がため息をついた。けれどもそれは、なんというか呆れたようなものではなく、むしろ安心したようなものだった。気がした。
「…大丈夫か?」
「おれ、…?」
サッと押し寄せるように記憶が戻ってきた。
油断した。この寺の状況を考えて自分に優しくしてくれるなんて、何か狙っていたに違いないのに。その結果、また三蔵に迷惑をかけてしまった。
暫く沈黙の後、常になく優しく三蔵が切り出した。
「あいつは姿を消した。おおかた逃げ出したんだろう。お前は気にするな。」
「うん…三蔵、ごめん」
「謝るな。…まぁ、ああいう奴もたまにいるから気をつけろ」
「うん…」
申し訳なさで俯いていると、慰めるように三蔵の手のひらが降ってきた。頭をくしゃりと撫でて、そのまま後頭部を滑り、首筋を経て耳の後ろに手を差し入れた。
三蔵の手のひら。一番安心する。それを甘受しようと悟空は目を閉じた。瞬間。

ーーーーーー夢で見た、黒く染まった三蔵を思い出した。自分が触れたばかりに黒く変貌し崩れ落ちる三蔵ーーーーーー

「やっ」
次の瞬間には三蔵の手を振り払っていた。
三蔵は一瞬驚いた顔をし、そして手をごく自然に下ろした。そして
「ゆっくり休め」
そう告げると踵を返し部屋から出て行った。
残された悟空は、自分の腕を戒めるように自分自身を抱き締め布団を被った。
それから数日かけて悟空はもとの悟空に戻った。よく笑い、よく食べるいつもの悟空だった。ただ一つ、三蔵へ触れる事だけはしなくなった。最初は気の所為かと思っていた三蔵だったが、決定的な事が起こった。
ついさっきまで笑顔だった悟空が、なにかの弾みで三蔵に触れようと思ったのだろう、手を伸ばした。だがその手は空中で止まり、悟空は険しい表情をしてその手を引っ込めたのだ。
思わず問い詰めてやろうかと思った三蔵だったが、先の事件が尾を引いているのだと思った。あの事件が起きるまで悟空との触れ合いは唇を合わせることまでだった。その先を彼は知りようがなかったのだ。
なのに、あの坊主に襲われ、悟空は自分との触れ合いの線上に同じものがあるのではと悟ってしまったのではないだろうか。そして怯えているのではないかと、三蔵はそう思った。
だから三蔵も手を伸ばす事をしなくなった。
怯えさせることも嫌な思いをさせることもしたくない。悟空が自然に受け入れるようになれるまで待つつもりだった。

そして、三蔵と悟空がお互いに触れなくなって半年が経った。
寒かった冬は終わりを告げ、そこら中から新しい春の息吹を感じるようになった。風は暖かく、緑は萌え、鳥は歌う。
そしてつい先日、悟空の誕生日がきた。それを知った八戒は笑顔で「今度の三蔵のお休みの日にパーティーしましょう」と、半ば強制的に三蔵の休みをもぎ取った。
そして、三蔵の休みの日。八戒と悟浄宅へ続く道の上にいかにも怠そうにダラダラと歩く三蔵とそんな三蔵を叱咤しながらスタスタ歩く悟空がいた。
悟空は「今日は特別だから」といつもの緑の服ではなく、余所行き用に購入していた赤いチャイナ服に身を包んでいる。一つに束ねた後ろ髪は悟空のお気に入りの紫の髪紐で結わえてある。朝、お互いギクシャクしながら結わえてやったものだ。まだ悟空は触れ合いに対して嫌悪感があるようだった。
ーーーー嫌悪感。前をピョンピョン跳ねるように歩いている悟空を見ながら、三蔵は黙念した。
先日寺院を訪れた八戒に対しては戸惑いも何もなく手を取ったりくっついたりしていた。それからよく観察していると、どうやら悟空は三蔵に対してだけ触れ合いを拒んでいるようだった。爪の先が当たるだけで肩を揺らして手を引いてしまう。
自分にだけ嫌悪感を感じているのではないか。最終的にはそんな考えに辿り着いて、三蔵は溜息をついた。
そして鬱々としながら暫く歩いた後、道の脇に大きく咲き誇る桜の木があった。
丁度いい。どかりとそこに腰を下ろすと、三蔵はタバコを取り出し火をつけた。
「おい、休憩だ」
悟空へと声をかける。彼はとても嬉しそうに駆け寄り、桜の木へと抱きついた。
まるで、とても大切な人に抱きつくように。
苛々した。どうしようもなく。悟空がそれをやめ、三蔵から微妙に距離を置いた場所に腰掛けるのを待った。そして。
「俺に触れられるのが怖いか」
ふいに三蔵が切り出した。
「……三蔵は怖くない。…でも、」
その瞬間、ふわりと風が吹いた。桜の木からハラハラと花びらが舞う。その花びらが悟空の髪にひらりと絡まった。悟空はそれに気付いていない。
「…今から、触れてもいいか」
悟空は俯いた。その睫毛の下で琥珀色が不安に揺れている。
三蔵は至極ゆっくりと手を伸ばした。
そして悟空に触れる瞬間、彼はギュッと目を瞑った。三蔵は構わず頬に手を添えた。
そのままじっと待つ。
焦れた悟空はおずおずと目を開けた。そっと瞼が開かれて、その下から黄金の瞳が現れた。悟空も三蔵を見つめた。お互いをじっと、三蔵は抱きしめるわけでもキスするわけでもなく、ただ頬に手を添えて真っ直ぐ前から見つめた。悟空は瞬きさえ忘れたようにその黄金の目に三蔵を焼き付けている。
三蔵は表情も変えずにずっと悟空の頬に手を添えていた。しばらくそうしていると、三蔵が静かに口を開いた。
「あの時のことは今日で忘れろ。悪い夢だと思え。今からの事だけをお前の心に残せ」
その時、桜の枝の隙間から光が射した。
その光は優しく淡く三蔵と悟空に降り注いだ。そしてそれに悟空は浮かされるように、そっと手を伸ばした。三蔵の頬に恐る恐る触れてみる。
指先が頬に触れる瞬間、サッと不安が押し寄せた。あのときの夢のように手のひらから闇が滲み出るのではないか。ーーー三蔵を汚してしまうのではないか。
しかし三蔵の表情は変わらなかった。変わらず美しかった。闇も出なかった。
光のなかに居る。
安堵から、ポロポロと涙を零しながら呟いた。
「三蔵、黒くならない…」
「…は?」
「夢、見たんだ。おれが触ったとこから黒くなって、三蔵がボロボロになる夢。おれ汚いから、おれが触ったら三蔵が汚くなるって思っ…」
「俺、何があってもやっぱり三蔵が好きだ。三蔵に触れられなくなったのだって、怖かったのは三蔵じゃなくて…汚い俺が触れてもいいのかって。三蔵に嫌がられるんじゃないかってそれが怖かった」
あふれる涙を三蔵は指先で優しく拭ってやった。それから悟空が落ち着くまで己の腕の中に閉じ込めた。
伝わってくる体温に安心したのか、悟空は嬉しそうに破顔した。もう怖くない。そう言うと、三蔵へ手のひらを伸ばし、そっと口付けた。
桜の木が優しく二人に花びらを降らせた。まるで祝福するかのように。永遠に続くかのように。

それから、悟空は悪い夢を見ることはなかった。




2015年 悟空聖誕祭
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