▼魅せられて


───『さまざまの こと思ひ出す 桜かな』。

爛漫と咲き誇る桜の花が穏やかな風に揺らされ花弁が絶え間なく舞い落ちるのを、ギルバートは保健室の窓辺で煙草を燻らせながら眺めていた。

「松尾芭蕉ですカ」

ギルバートが何とはなしに口にしたのを、耳にしていたらしい。視線は手元(各クラスの保健調査票を名前順に並べ直しているらしい)そのままに、ブレイクが呟いた。

「作者が生まれ育った地である伊賀上野に帰郷したときに、詠んだ句だ」

問われた訳ではないのだろうがギルバートは、そう返した。
伊賀上野は、現在の三重県上野市である。芭蕉は旧藩主の下屋敷に招かれて、数十年ぶりに花見をした。この旧藩主というのが藤堂良忠、俳号を蝉吟という。芭蕉にとっては若かりし頃に仕えた相手であり、彼が俳諧を嗜んでいたのに倣って俳諧の道に入ったのだ。良忠はそのとき病死していたが、その息子・良長がこの花見を催したのだとされている。

「“この桜を眺めていますと昔のさまざまな思い出が思い起こされます”というような意味ですよネ」
「息子の良長は、当時の芭蕉と同じ年頃だったらしいしな。余計に思うところがあったんだろう」
「ナルホド」

ブレイクは選り分けていた紙の束を纏めて整えたかと思うとギルバートの傍らまで来て、同じように外の桜を見上げた。仕事は終わったのか、と視線で問えば「単純作業ですから」という答えが返ってきた。
そうして2人は暫し桜の花びらが風に遊ばれ、ひらひらと地面に降り注ぐ様を眺めていた。

「……さっきの句だが」

不意にかけられた声に耳を傾け、ブレイクはギルバートが短くなった煙草を携帯用の灰皿に押しつけるのを視界の端に入れる。

「作者の思い出について、具体的な内容は示されてないだろう。だから読者は、この句を通して各々の思い出を思い浮かべることができるんだ」

───お前には帰りたい場所があるか?

そう質問するギルバートこそ目の前の桜を通して、どこか遠くを見ているようだ。ブレイクは無性に、ギルバートの視界を塞ぎたい衝動に駆られた。

「……帰りたい場所、ネェ」

ブレイクは思う。帰りたいと思うのは“場所”というより“時間”ではないだろうか。今が不幸な訳ではなくとも、誰にだって“ずっと居たかった時間”というのはあるものだろう。
まして、すぐに過ぎ去ってしまうのだから。“幸せな時間”というものは。

(……ああ、そうか)

だから人は、美しく咲き誇る花を見て感傷に浸るのか。散りゆく姿を儚く思い、或いは在りし日を重ねて。

「ギルバート先生」

ブレイクは半ば呆けているギルバートの腕をとって、引き寄せる。そうして、耳元で囁いた。

───そんなものを見ているくらいなら、私のことを見ていなさい。


れて
(私の居ない時間に思いを馳せているくらいなら、ネ)






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