土岐08 | ナノ



君に恋をした瞬間を思い出す。
今は遠くなったあの日のこと。
でも、それはいつまでも鮮明に心の中で輝き続けている。





鮮やかな世界







かなでと蓬生がであったのは彼女が高校二年夏のことだった。千秋のわがままにより半ば強制的に参加させられたコンクールで出会ったことがきっかけ。ホテルを借りるよりも面白そうだからという、安直な理由で彼女のいる寮に千秋共々転がりこんだのがそもそもの始まりだった。
最初はなんだか疎そうな子だなと思った。ほえほえしているし、見ていてこんなのでこれから先、生きていけるのか不安になるタイプ。 楽しいことは大好きだが、面倒なことは嫌いな自分には苦手なタイプだなと直感的に蓬生は思った。
かなでは普段から数人の男に囲まれていて、ほえほえ笑ってばかりいた。
華がないと千秋に音楽家として致命的な欠点を指図されても、やっぱりふわふわと笑うばかりで堪えた様子はない。
「なんだ、あれは」
頭のネジでも飛んでいるのかという千秋の台詞に蓬生も内心で同意した。
言われたかなではやっぱりふわふわと笑うばかりで特に言い返してくる様子はない。
そのかわり、傍にいた如月兄弟の弟のほうが千秋に噛み付いていた。
第一印象はそんな感じで、正直好感は持っていなかった。


そんな感情を覆したのは、それから数日後のことだった。


蒸し暑い夏の盛。こんなに暑い日に外に行くのは自殺行為だと、蓬生が一人寮で残っていた時のことだ。
蓬生以外は外出していて、しんと静まり帰った廊下をなにげなく歩いていたとき、くすんとどこかで誰かが鼻を啜る音が聞こえた。
一瞬幽霊かと驚く。何せ蓬生が間借りしている菩提樹寮はとてつもなく古くてボロボロだ。幽霊の一体や二体でたところで、それくらいの曰くならいくらでもありそうだったので蓬生はたいして気にも留めなかった。ただ、千秋たちが戻ってくるにはまだまだ時間があったので、退屈しのぎに確かめてみるかと音の発生源を足音を消して探索する。
声は誰もいないはずのラウンジの隅から漏れているようだった。

…っく、ひっ…くっ

立て続けに嗚咽を堪えてしゃくりあげる声が聞こえる。
気付かれないようにテーブル越しに音源を覗きこむと、そこにいたのはいつもふわふわ笑うばかりの小日向かなでだった。
「ひっ…く、うっ…」
声が漏れないように両手で口を押さえて震える少女はいつも以上に頼りなくみえる。嗚咽と共に細い肩が痙攣するように震えた。俯いているせいでいつもよりも露出した耳と項は感情の高ぶりのせいで艶かしいぐらいの桜色に染まっている。
その項に吸い寄せられるように視線を走らせ、蓬生は慌てて目を閉じた。

あかん、面倒ごとや

そう思って蓬生はそっとその場を一歩下がった。そのまま気付かれないように一歩二歩と後退り、そうやって何歩か離れたところで踵を返す。
息を殺したまま自室に戻り、部屋のドアを閉じたところで蓬生は大きく息を吐いた。
ベッドに仰向けに倒れ込んで目を閉じると先程のかなでの姿が脳裏に浮かぶ。

あんなふうに泣くんやな

なんだか意外だった。普段はふわふわと笑っている少女が泣いたり落ち込んだりするイメージは一切なかった。
泣くとしてもきっと普段取り巻きみたいにくっついている男共にすがって泣くのだろうと勝手なイメージを持っていたが、意外なものだと蓬生は一人ごちた。
そして、ふとそういえばあのまま泣いていたら誰かが帰ってきたときに見つかるのではないかと蓬生は思う。
ラウンジは玄関のすぐ近くだし、かなでは声を堪えているつもりだったが嗚咽は寮の廊下まで響いていた。

誰かが見つけたら…きっと慰めるやろ

そんなことを考えると、何故か胸の辺りが苦しくなった。
誰かに優しく慰められるかなで。
あのいつも以上に頼りない少女がすがっている男の姿を想像すると、心臓よりももっと深い場所がきゅっと音をたてた。

なんや、これは

今まで感じたことのない感覚に蓬生は瞼を開いて起き上がる。
そのまま何かに導かれるようにベッドを降りてドアノブに手をかけたところで蓬生は我に帰った。

なんや…何を考えとる…

今更かなでを慰めに行ってどうしようというのだ。面倒なことが増えるだけだ。泣きじゃくる女は面倒くさいばかりで、蓬生は苦手としていた…はずだ。だとしたらこの手はなんなのだろうと蓬生はドアノブを握る自分の右手を見つめた。

これは違う
これは…

にわかにラウンジが騒がしくなった。蓬生は慌てて視線を上げて時計を見る。時間は既に6時をさしていて、いつの間にか外も藍色に染まり始めている。
帰ってきたのはどうやら仙台組のようで、わぁわぁと騒ぐ声が離れているはずの自室まで聞こえた。

小日向ちゃん、見つかったんやろうか

それにしては、聞こえてくる声は陽気だ。
聞こえる内容を探るように耳を澄ますと、その直後遠くのほうで蓬生と呼ぶ声が聞こえた。東金千秋だ。何度も何度もしつこく呼ぶその声に、自分は犬とちゃうねんけどと内心毒づきながらも蓬生はドアノブをまわして部屋を出た。
ラウンジに近づくにつれて騒がしくなる声に蓬生は眉を顰める。ラウンジの端、丁度先ほどかなでがいたあたりでは仙台組が集まってなにやら菓子折りのようなものを開いていた。
「なんやの?人を呼びつけて」
その輪の中にさも当然のように入っている千秋に蓬生が声をかけると、千秋はああと笑って振り返る。
「ユキが水羊羹を持ってきたんだ。お前こういうの好きだろ」
「水羊羹…」
そのためにわざわざ人を呼びつけたのかと蓬生は息を吐いた。確かに水羊羹は好物の一つだがわざわざ呼び出されてまでどうしても食べたい代物ではない。
「いらん、調子悪いしちょっと寝てくる」
折角進めてくれた物を断ると、蓬生のそういう気まぐれに慣れている千秋はそうかとだけ言って羊羹を下げた。
そうして手にした水羊羹に視線を落とすとそういえばとここにはいない少女のことを口にした。
「地味子はどうした?あいつ、こういうのには目がなさそうだが」
確かに小日向かなではいかにも甘い物が好きそうなタイプの少女だ。一目散に走ってきそうな彼女がいないことに不信感を覚えたのか千秋は視線をさ迷わせ、そこに丁度如月兄弟が外出から帰ってきた。
「おい如月、地味子はどうした?まだ外出か」
「地味子?」
千秋の言葉に如月の兄の方が不思議そうに眉を顰め、それを不本意そうに弟がフォローする。
「かなでだよ。あいつはそう呼んでんだよ…いい加減慣れろよ」
確かに千秋はかなでと出会って以来彼女のことを地味子としか呼んでいない。それにもかかわらずとぼけた反応をする如月兄に蓬生も内心嘆息した。だが彼は特にそれについては気に留めた様子もなく口を開く。
「かなでなら今日は先に寮に戻ったはずだが?何か用があると言っていたからな」
「ふぅん、じゃあいるのか」
それにしてもこの騒ぎで出てこないとなると寝ているんじゃないかという千秋に先ほどまで泣きじゃくっていたことを知っている蓬生は曖昧な返事をした。千秋は羊羹を持ったまま暫く考えたあと、このまま起こさないで全部食べるとあとで何か因縁をつけられそうだといって女子寮の方に歩いていこうとする。
事の真相を知っている蓬生が慌ててとめようとすると、不意にラウンジに少女の声が響いた。
「皆さん、なに騒いでるんですか?」
柔らかい笑みをたたえて現れた少女は先ほど泣いたかなでだった。ついさっきまで泣いていたはずなのにそんな痕跡は微塵も感じさせず、いつもの通りなにも感じていないような笑顔で輪の中に加わる。
「わぁ、水羊羹」
「よかったらお一つ」
どうぞ、という八木沢に嬉しいですとかなでが笑顔を浮かべる。無邪気なその笑顔に蓬生は微かに嫌悪感を覚えた。

…心配損やわ…阿呆らしい

くるりとかなでの笑顔に背を向けて蓬生は自室へと戻る。ラウンジの喧騒のせいで先ほどまでの静けさを失った廊下を歩いていると、あの光景は夢だったのではないかと疑念が浮かぶ。
暑さゆえの白昼夢。

…ありえる

かなでがあんなふうに泣くという事実よりもそちらのほうが真実味がある。疲れているのだと蓬生は頭を振って自室の扉に手をかけた―――と、不意に服の裾を誰かが引っ張った。なんだと振り返るとそこにはかなでが立っていて、羊羹を一切れ皿に載せて持っている。
「なんやの」
「蓬生さんの分です…」
「いらんて言うたんやけど」
「東金さんが持っていけって」
かなでがそういってそっと蓬生の部屋の扉を開けた。そのまま断りもなしに部屋に入り込むとベッドの横のサイドボードに皿を置く。
「折角ですから、食べてください」
「いらん、言うてるやろ」
仮宿とはいえ自室に入られたことに不快感を示す蓬生にかなでは一瞬唇を噛んで、それから置いておきますからといってドアの前に戻った。
それと入れ違いに部屋に入った蓬生はサイドボードの皿を取り上げて、かなでに突きつける。
「いらん」
「東金さんにいわれましたから」
「千秋がそんなこと言うはずがない」
これには自身があった。蓬生がしつこく同じことをされるのを嫌うことを千秋は付き合い上よく知っている。かなではそのセリフになぁんだと目を丸くして呟いた。
「知ってたんですか」
「当たり前や」
どれだけ付き合い長いと思うてるの、という蓬生にかなでは再びなぁんだと間延びした声を言うと、ドアノブに手をかけた。そのまま部屋を出て行こうとするかなでに蓬生は慌てて声をかける。
「ちょい待ち、これもって帰り」
そういって皿を突きつけるが、かなでは一瞬それに視線を落としただけで受け取ろうとはしない。それどころかにっこりと笑うとそっとその唇に自分の人差し指を当てた。
「口止め料、です」
「は?」
突拍子もない言葉に蓬生が言葉を失うとかなでは面白そうにくすくすと笑ってそれからドアを開いた。
「見たでしょ?泣いてたの…誰にも言わないでくださいね」
恥ずかしいので。
そういってかなでは開かれた扉の向こうに姿を消す。去り際にふわりと髪が揺れてそれまで隠れていた耳元が露出した。
その耳が先ほど見た耳よりも真っ赤に染まっていて、その艶かしい赤さに眩暈がしそうになる。
つい先ほどまで女を感じさせなかった少女が突然魅せた色気に蓬生は体の奥が熱くなるのを感じた。

あかん…これは

遥か昔、病室に置き去りにしたはずの感情が体の奥底から沸きあがる。
その感情の名前を思い出して蓬生は小さく息を吐いた。

執着
まさか、自分が?

そんな筈はないと思うのに、去っていく彼女から視線をそらさなければと思うのに体が動かない。
ばたんと扉が締まる音がしても蓬生はしばらく扉を見つめていた。


思えば、恋はここから始まった。


「なにを笑っているんですか?」
不意に真横で声が聞こえて蓬生は我に帰った。見慣れたワンルームの一室でかなでがテーブル越しにこちらを見ている。
そのかなでは先ほどのかなでとは違って、いやたいして変わりもなく子どもっぽく押さない表情だ。
「もう何年もたってんのやけど…変わらへんな」
先ほどまで随分昔の記憶の中にいた蓬生はそういって目の前のかなでをまじまじと見つめた。もう社会人になって2年目だというのにかなでは今でも高校生と間違えられるぐらいに幼く初々しい。
見つめられたかなでは恥ずかしそうに頬を染めると、もぅっと抗議の声を上げる。
「そんなに見つめられると穴が開いちゃいます」
「見つめられて穴が開いとったらかなではもう穴だらけや」
そいういうとかなでは再びもうっと声を上げた。それを微笑んで受け流しながら蓬生は自分のポケットを探る。
かなでと出会って今日で丁度7年目。ケジメはいい加減つけたい。
そう思って用意した特別なアクセサリーを手に蓬生は微笑んだ。

思えばあれから恋は始まった。
かなでを女性と感じたあの一瞬から―――

そっとさしだした銀色の輪がこれから先もこの恋は続いていくのを予言するかのようにきらりと光った。


Title=楽譜。様より拝借

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