天宮長編01 | ナノ






あいのうた・1





小日向かなでの朝早い。5時に起きて、顔を洗い、ご飯を食べて6時には一人暮らしのマンションをでる。
早起きは三文の徳。祖父から教えられた言葉は成人してもこの身に染み付いている。
高校を卒業して、大学も卒業して、気がつけば社会人になっていたかなでは、現在駅前にある音楽塾で講師をしながらプロの音楽家を目指していた。
実家に戻る事はなく、横浜で生活をし生計を立ててる。音楽だけでは勿論食べていけなくて、時々日雇いのバイトにも行ったりする。時々コンクールに出場しては無難な成績を収めて経験を積む。経験を積んで、大きなオーケストラに入るのが今のかなでの目標だ。
もっとも学生時代からそれなりに実力のあったかなでは音大にいるときに何度か世界にいってみないかという誘いがあった。
しかし、かなではそのどれもを断っている。
その理由はただひとつ。


世界は彼女から彼を奪ったから


かなでが彼と―――天宮静と出会ったのは高校二年生の夏の盛り、横浜に転校してきてまもなくのことであった。
偶然静が予約していたスタジオをかなでが使用したことで知り合った二人は、静の提案から二人だけの秘密の実験をすることになる。
それは、擬似恋愛。
恋愛によって得られる音楽を知りたい静と音楽自体に行き詰まっていたかなでは即決で契約を交わした。
デートをしたり、手を繋いだり。恋人らしいことを二人で考えて、できうる限りのことをやってみた。
嘘の恋人。恋愛をしているフリ。
全部嘘だとわかっていたはずなのに、擬似恋愛はかなでの中でいつしか本物へと掏り替わり、静に幼い恋愛感情を抱くようになっていた。
いつまでも続くままごとの様な、甘いだけの恋愛。
好きだよと言われるたびに、それが心からの台詞ではないと理解していたはずなのに胸が高鳴った。
だが始まりが突然であったように、終わりもまた唐突にやってきた。
「さようなら、もう会えない」
忘れもしない、高校生の夏の全国大会ファイナルの数日前にやってきたメール。
そんな一言で二人の関係はいともあっさりと砕け散った。
「あんなやつ、止めておいて正解だ」
そういって憤ってくれたニアとも、そういえば長い間あっていないなと、塾に向かう道すがらかなではぼんやりと思った。


受講生が来るまでの時間がかなでに割り当てられた練習の時間だった。かなでが住んでいるところでは防音設備がなく、ヴァイオリンの練習は出来ない。防音設備のついたアパートなど家賃が高すぎてかなでの薄給では到底手が出なかった。場所を求めて彷徨ったかなでは安い給料と引き換えにこの塾の塾長に頼み込み、生徒が来るまでの僅かな時間をそれにあてる許可を取った。
誰もいない教室の鍵を開け、かなではふぅと小さく息を吐いた。社会人になってから2度目の夏。まだ朝早いせいおかげで蒸し暑さは感じない。防音のため完全に締め切られた教室は真夏にもなればクーラーをつけなければサウナに匹敵するほどの暑さになる。流石に楽器を置いているだけあって空調管理はきちんとしているが、かなで一人のわがままで勝手に温度設定をいじることは出来ない。すぐに暑くなるんだろうなと思いながらかなではヴァイオリンを手に取った。
練習するのは次回の国内コンクールの課題曲だ。
曲目は感傷的なワルツ。
まずは指ならしのためにゆっくりとした滑り出しで演奏をする。
そういえば静と別れる前までは華やかな曲が好きだったなとかなでは思った。
ユーモレスク、カボット、カルメン…
思い出す曲と同時に楽しかった思い出までが次々と蘇る。
華について悩んでいたとき、温室に連れていってくれたこと。神社に二人で出かけたこと。二人でみた花火のこと。些細な日常のヒトコマ。そういえば彼は暑いということに割と無頓着だった。夏の盛りだというのに長袖をきていて、見ているこちらのほうが暑かったことを思い出す。
不意にかなでは弓をひく手を止めた。
どうしてこんなに彼のことを思い出すのだろう。
社会人になってからはもう思い出すこともほとんどなくなったことだと言うのに。

きっとあのポスターのせいだ

かなではゆっくりと教室の壁に貼られているポスターに目を向けた。ポスターにはあの頃よりも随分と大人びた、しかし懐かしい面影を残す彼の姿がある。
初の日本公演!新鋭ピアニスト天宮静ソロコンサート!!
ありきたりな煽り文句で書かれたそのポスターからかなではそっと視線を外した。
久しぶりに静が日本に帰ってくる。

彼は私のことを・・・おぼえているだろうか



*****



天宮静が日本の土を踏むのは高校三年のあの日以来6年ぶりのことだった。
もうそんなになるのかと感慨深く思いながら、静は飛行機から降りる。日本で初の凱旋コンサートの為にやってきた静は日程よりもかなり早めに日本についていた。
理由は特になく、あえて言うなら懐かしい故郷を久しぶりに散策してみたかったからだ。空港から新幹線に乗って横浜へとやってきた静は、懐かしい町並みに目を細めた。6年前と変わった部分もあれば、あまり代わり映えのしない場所もある。
暫くは厄介になるホテルに荷物を置いた静はふらりと横浜の町を探索していた。
行く当てもないのに電車に乗って、高校時代に通っていた学校がある駅で反射的に降りる。
相変わらず人に溢れたそこは6年前とたいして変わりもなく存在していた。
「懐かしいな」
誰に言うでもなく呟いて、静は近くのベンチに腰を掛けた。人ごみを意味もなく見回して、それからふと笑みを浮かべる。高校生最後の夏、毎日のように会っていた少女のことを思い出した。

小日向かなで

名前そのままのような明るくて、優しい少女。彼女との出会いはほんの偶然で突然だった。
まるで運命の悪戯のようにひきあった二人はある日突然破滅を迎えた。

引き金は―――

静が引いた。

あれからもう何年経ったんだろう

静はゆっくりと顔を上げた。あの頃と何ら変わりなく思える駅前の人通り。そのうちあの人混みを掻き分けて彼女がやって来るのではないかと錯覚する。
ジリジリとした太陽の熱に反するようにあっかたかい日だまりのような笑顔の少女。



別れてからもう6年が過ぎていた―――



******



かなでの帰宅は遅い。最後の塾生の講義が終わってから日報をまとめ、ほんの僅かな時間練習をしてから教室を出るのが11時前。家について食事をし、風呂に入ると気がつけば時計は12時を過ぎている。
こんな生活をしていればいつか体を壊すだろうなと他人事のように思いながら、かなでは就寝のためベッドに潜り込んだ。
実際、かなでは疲弊していた。
コンクールに行くにはお金がかかり、ヴァイオリンのメンテナンスを合わせると相当な額になる。お金を稼ぐために塾が休みの日はバイトに行って、それでも生活費がぎりぎりになるから一番削れる場所・・・食費を減らす。
ご飯を食べなければその分体力が失われて悪循環になるのはかなでにもわかっていた。わかっていても辞められない。
私は立ち止まれない。立ち止まったら・・・きっと
かなでは布団を頭から被った。



もう歩き出せない



そんな気がした。




人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -