響也10 | ナノ



子供のころは怖いものなんて何もないと思っていた。
両親がいて、祖父がいて、律がいて、響也がいて、かなでの世界を構成するものは全部優しくて、全部完璧だった。
お化けや近所の凶暴な犬だってみんながいれば何一つ怖くなかった。
だけどいつかそれには終わりが来る。
幼いころのかなではそれを知らなかった。



この世で一番怖いもの





かなでの世界が一変したのは律が県外の高校を受験すると聞いた日のことだった。新たなライバルを求めて、故郷を捨てた律。あの日、響也がわめくたびにかなでの心はずきずきと痛んだ。その傷は年月を重ねると同時に上手に隠していけたけれど、まだ埋まっていない。
「律くんがいなくなってもう二年もたつんだね」
古びた中学校の屋上でかなではフェンスにしがみつきながらそんなことをつぶやいた。時刻は放課後。そろそろ進路を決める時期の放課後の太陽は、夏よりもずっと早く地平線に吸い込まれてしまう。もう光の一部しか見えなくなった太陽を見送るように背を向けているかなで。響也は給水塔の壁にもたれながらたいして美味くもない紙パックの牛乳をストローで啜った。
ずずっと下品な音が放課後の静寂に満ちた屋上に響いて、かなではもうと頬を膨らませる。
「響也、雰囲気壊しすぎ」
「は、なんの雰囲気だよ」
かなでの言葉に響也は不機嫌そうにストローから口を離した。感傷に浸る雰囲気だというと、はっと鼻先で笑われる。
お前に感傷なんて言葉は似合わない、と言い切られてかなではむぅと頬を膨らませた。
「そんなことない、私だって感傷に浸ったりするんだから」
「感傷?感傷的なワルツを子犬のワルツ並みに楽しそうに弾くやつが?」
「あ、あれはちょっとした挑戦だよ」
「挑戦ね…斬新過ぎて先生泡食ってたじゃないか」
響也の台詞にかなではうっと喉を詰まらせた。このままでは言い負かされてしまうとフェンスにしがみついた手に力をこめる。こうやって響也に負けそうになると背中を向けるようになったのはいつからだろう。ほんの二年前までは二人の言い争いの間には必ず律がいて、いつも喧嘩の仲裁をしていてくれたのに。もう太陽の光が見えなくなった地平線を黙って見つめるかなでに響也は小さくため息をついた。もう中身がなくなった紙パックを握ってつぶす。
「感傷ってどうせ兄貴のことだろ。律、律、律、お前あいつがいなくなってからずっとそればっかりだもんな…まあ昔からだけど」
背後からそういわれてかなでは唇を噛み締めた。そうだと思う。かなでの世界にはいつだって律がいた。大人に言わせれば短い13年という月日は、15になったかなでの人生のほぼすべてで、そのすべてに律がいる。律がいなくなるということは半身を奪われるということ。かなでは小さくため息をついた。進路選択が近づく放課後の空気は冷たくて、かなでの小さなため息を白い色に変える。
「…かなではさ、兄貴が…律がいればいいんだよな?」
不意に響也がそんなことを聞いてきた。驚いて振り返ると、響也がひたりとこちらを見据えている。
太陽が地平線に消えてしまった放課後の屋上には明かりらしい明かりはなく、響也の表情は見えない。
「響也?」
何故か意味もなく無性に怖くなって、かなでが確かめるように名前を呼ぶと響也の肩がびくりと震えた。
黄昏がもたらした暗闇は二人の間に暗い影を落とす。これ以上踏み込めばもう元には戻れない。それを認めたくなくて、もう一度かなでは彼の名前を呼んだ。
「響也」
「・・・・・・っなんだよ」
僅かな沈黙の後、響也はいつものように無愛想な返事を返した。それだけで妙な緊張感が霧散する。律がいなくなってからこんなことが増えたとかなでは思った。得体の知れない緊張感。不安感。気の置けない幼馴染のはずなのに、たった一人が姿を消したことでその均衡が壊れようとしている。それが条理なのか不条理なのか、かなでにはわからない。ただ壊したくないと思った。これ以上壊してしまいたくない、今は―――まだ変わってほしくない。
縋っていたフェンスがみしりと音を立てる。そんなに力をこめていたつもりはなかったが、思いの外緊張していたらしい。その音を聞いた響也が嘲るように馬鹿力と笑い、かなではもうっと頬を膨らませた。
「そんなことないもん」
「いやあるだろ、フェンス歪んでるぜ」
「これは・・・この針金が脆くなってただけだよ」
そういうかなでにはいはいと生返事をして、響也は再び沈黙した。その沈黙は先ほどの沈黙のような緊張感を孕んだものではなかったが、かなでを再び戸惑わせる。
「響也?」
「なぁ、かなで」
「・・・・・・何?」
「おまえさ、何がそんなに怖いんだ?」
そう問われて、かなではえっと声をあげる。思っても見なかった質問だった。心のうちを見透かされたような、それでいて見当違いのような複雑な感覚にかなでの細い肩が戦慄く。
「どういう、意味?」
「そのまんまだよ、フェンス歪むくらい力入れてさ・・・俺は律よりは頼りないかもしれないけれどさ」
何か力に慣れるかもしれないだろう?そういわれてかなでは僅かに視線を伏せた。怖いこと。怖いもの。いえるはずがない。言ってしまったら最後それは現実になってしまうような気がして、かなでは再びフェンスを握り締めた。

Comment=尻切れトンボな響也+かなで。中学校時代はこんな葛藤があってもいいと思う。

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