見上げた空はいつも遠い。
 吸い込まれそうな濃紺の空にちらちらと瞬く星は、既に数え切れないほどの数になっている。今日は幸運な事に月も細く、星の光を遮る月影も弱い。絶好の七夕日和となった。
 ―――しかし。

「大丈夫ですか?」

 僕の隣に座って縁側から星を眺めている太子は、既に目がとろとろだ。時折かくりと船をこいでは、その衝撃でハッと目を覚まし、また空へと顔を向ける。だから、あれだけ仮眠をとっておけと言っていたのに。
※今にも後ろにひっくり返ってしまいそうで危なっかしい。

「太子、眠いのなら寝床の用意をしましょうか?」

 そんな太子を見ていられなくて、僕が提案する。しかし、太子は首をプルプルと横に振った。

「まだ天の川が天頂じゃない…」

 言いながら、手の甲で目をゴシゴシこする。

「ああ、こら。」

 あまりこすると目が腫れてしまう。僕は太子の手をそっと外しながら、稚児にするように言い聞かせた。

「どうしても我慢ができなかったらすぐに言ってくださいよ。眠った人を寝床まで運ぶの、結構大変なんですから。」

 「う、」とか「む、」とかいいながらこくりと頷く太子だか、既に眼が開いていない。船を漕いでいるのか頷いているのかすら曖昧だった。
 これは、もう、夢の国に旅立つのも時間の問題かもしれない。僕は溜息をつくと諦めて空を見上げた。
 ネオンの明かりなど存在しない飛鳥時代の夜は、細かい星までよく見える。燦然と輝きながら存在を誇示している星や、点にすらなりきれなかった星屑達が、数え切れない程集まって、見事な天の川を作り出していた。その両端に、ひときわ輝いているのが、織姫星と彦星。
 7月7日の真夜中一時頃、その天の川と二つの星が天頂に達するとき、2人は一年に一度だけの逢瀬を叶える。その時こそが、七夕のクライマックスである。

 (あと一時間くらいか…。)

 僕は星の位置から、大体の検討をつけた。それまで、太子を起こしておかねばなるまい。この人は、後が文句たらたらと五月蝿いのだから。

「太子、短冊に何書いたんですか。」

 とりあえず話でもしなければ。僕は無難な会話を選んで話しかけた。

「ええっと、」

 太子は、ねむた眼で、指を折りながら数え始めた。それにしても太子は相当眠たいらしい。さっきから妙に素直で大人しい。いつもこうだったらいいのに……。

「ワンちゃんと遊びたいだろー、カレーがいっぱい食べたいだろー、あと世界中のクローバーを四つ葉にしてほしいだろー……‥‥」

 太子が言う度にうんうん、と頷く。七夕の願い事は本来、芸事の上達に関する事でないといけないらしいが、まぁ、良いだろう。本人が楽しめているのなら、それに越したことはない。
 太子はひと通り自分勝手なお願いをつらつらとあげていき、そして、聞いている僕が眠たくなってきた頃、やっと言い終わったらしく、黙ってしまった。

 今度は僕のお願いを聞かれるだろう。そう考えた僕は、ぼんやりと昼間の短冊に書いた事を思い出していた。

 ―――しかし、いつまでたっても太子の声は聞こえない。ただ、湿気を含んだような沈黙がたっぷりと漂うばかりだ。
 不思議に思った僕は、眉をひそめながら太子の方向へツイ、顔を向けた。



 太子は、膝を抱えて天を仰いでいた。視力がそんなに良くないためか、薄く目を細めている(泣いてもいないのにひたひたと光っているその瞳が、闇に捕まって星になってしまったりはしないかと思わず心配になった)。彼の蒼白い肌が、星の薄い光を余さず拾い上げ、彼自身が発光しているかのような錯覚を覚える(今、手を伸ばしても、それは、すかりと空を掴んでしまう気がして、彼が本当は死んでやしないかと、記憶の真偽を確かめた)。
 闇の中に浮かび上がる太子は、自分たちが今見ている星空よりもずっと幻想的で、何よりも遠い物に感じられた。

 急に恐ろしくなった僕が、思わず何か言いかけたとき、一瞬早く太子の口が動いていた。



「なぁ、一年に一回しか好きな人と会えないってどんな感じなんだろうな…‥‥。」



 成る程。
 太子は織姫と彦星の空想にふけっていたらしい。さっきの彼に、妙に現実味が無かったのはそのせいか。
 身体(からだ)はここに在りながら、精神(こころ)は天の川の流れにでも乗っているのだろう。

 妙に心地よい安心感に包まれた僕は、何故だか早くなった鼓動を落ち着かせながら(僕は、そんなに恐かったのか)太子の言葉の意味を考えた。








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