ごめん。来ちゃった。
家、飛び出してきちゃった。内緒で。


「…早く帰ったほうがいいよ」


リョーマくんがそう言ってベッドに腰かける。わたしは重い空気を纏って、何も言わない。俯く。リョーマくんのため息をつく音がして、心臓がどくりと音を立てた。


「あの、ごめん」

「何が?」

「迷惑だった、よね。ごめん、」

「…俺は別に、いいけど」


リョーマくんがふいと視線を逸らす。しばらくの沈黙のあと、「親、心配してないの」と彼は呟いた。首を振る。一言「わかんない」と呟けば、呆れたようにまたため息をつかれる。馬鹿じゃないの、と。いつもの調子で言われた。うん、馬鹿。ごめんなさい。
私たちの重い空気も知らないような顔でリョーマくんの飼い猫がわたしの膝に飛び乗った。リョーマくんは驚いたような顔をして「こら」と声を大きくする。わたしに言ったのかと、勘違いして顔を上げた。怯えた表情のわたしに彼は息をのみ、口の中で何かを迷いながら呟いた。「カルピンに、だから。…そんなに、怯えなくても」
彼の眉間に皺が寄る。怒ったのかな、と思ったけどどうやら困ってるみたいだった。少しだけ、わたしの中の緊張の糸が解れて和らぐ。カルピンと呼ばれた猫の喉元をくすぐれば嬉しそうに喉を鳴らす。ああ、なんとなくリョーマくんと、似てるなあって。そう思ったら少し笑えてくる。


「…何笑ってんの」

「ごめん、」

「…カルピン、おいで」


リョーマくんがそう言うと、猫はするりとわたしの膝を抜け出しリョーマくんの膝へと向かう。とても物分りのいい猫だ。しばらくの沈黙を埋めるようにリョーマくんは、言った。


「…帰ろ。やっぱり、心配してるって。きっと」

「………」

「送ってくから」

「……う、ん」


リョーマくんが猫をベッドに下ろすと立ち上がる。わたしもマフラーを巻いて立ち上がった。「行こ」と言うリョーマくんに頷く。迷惑かけて、ごめんね、なんて。言いたくても喉をついて出てくることはなかった。







「…寒くない?」

「あ、うん。大丈夫、だよ」


暗い夜道、リョーマくんはしきりにわたしに話しかける。普段の彼からは珍しいことで、そしていつもよりなんだか、優しかった。ケータイを見ればもう三時を回っている。申し訳ない。息を吐けば白くなる。ふわふわと白い空気がわたしとリョーマくんを包み込んだ。


「聞いていい?」

「何?」

「どうして、来たの。家、抜け出してまで」


視線を感じた。でもわたしはなぜかリョーマくんを見れなくて、少し、怖くて。俯いて、ただつま先を見つめる。ショートブーツの尖ったつま先は昔の自分を思い出すことが出来ず、なおさら気分をおかしくさせた。リョーマくんがどんな表情をしてるのか見るのが怖い。なるべくブーツの音が立たないように歩いていた。まるで自分の存在が誰にも知られないように。リョーマくんに、さえ。
ふと目を閉じたら真っ暗で、でも目を開けていた景色とそう変わらない。目を開けていても閉じていても変わらない時間なんて早く終わってしまえばいい。暗いのは、怖い。誰かに傍にいてほしい。そっと触れて、大丈夫って言ってほしい。でもそれは、ただの、甘えで。


「…ねえ」


ふと、隣から声が降ってくる。はっと見るとリョーマくん、なんだけ、ど。
どきっとした。まるでリョーマくんじゃないような、とても大人っぽい表情をしていた。目を逸らそうとしてできない。真っ直ぐに見つめてくる視線が痛くて、苦しくて、それでいてあったかかった。矛盾した自分がきらい。こんな夜もきらい。ブーツで痛めているこの足もきらい。ぜんぶぜんぶ、きらい。でも。


「…大人になったら、ちゃんと家出してくれば。一生預かってあげるから」


こんなきらいなものばかりの世界でも、リョーマくんだけは好きになれると思ってしまう。夜が怖くて、一人が怖くて、何も言わずに飛び出してきたわたしをもし両親が見放したとしても、彼だけは見捨てないでいてくれると信じていたい。実際に彼はそうだと笑うと思う。それでも確証なんて得ることはできないけど、それでも、それでもリョーマくんは、きっと。

朝露が月に光っていた。ああ、もうすぐ夜が明けてしまうのかな。


「あのね、リョーマくん」

「何?」

「わたしがね、家飛び出して来た理由ね、」


立ち止まると、彼も立ち止まった。本当は手を繋ぎたかったのだけれど、彼の手はポケットにおさまっていたので叶わない。代わりに、痛む足を我慢して背伸びした。
わたしが家を飛び出してしまった理由。それは、夜が怖くておそろしくて、だから、あの月に光る朝露のように、わたしは。


「見つけてほしかったのかもしれない」


わたしが朝露で、リョーマくんが月になるように。そのひかりを、わけてもらうために。
わたしは初めて自分からリョーマくんに唇を押しつけた。


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